クラシック音楽のヨハン・シュトラウス2世ってどんな人?7つの名曲とともに半生を辿る

音楽の都、ウイーンを代表する作曲家と言えば「ヨハン・シュトラウス2世」です。

代表曲の美しき青きドナウは「ウイーン第二の国家」と呼ばれていますし、ウイーンにはシュトラウスの黄金像が建てられていて、観光名所の一つになっています。

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どうしてシュトラウス2世はこんなに愛されているのでしょうか?

その人生を、7つの名曲とともに解説していきます!

ヨハン・シュトラウス2世ってどんな人?

ヨハン・シュトラウス2世は1825年にウイーンで生まれた作曲家です。

当時、ウイーンを中心に世界的に流行していたワルツ音楽の第一人者で、クラシック音楽界では珍しい「生前に大成功を収めた」作曲家でした。

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いわゆる勝ち組の作曲家ですね♪

ワルツ王と呼ばれたロマン派の作曲家

音楽史でのシュトラウスは「ロマン派」の作曲家です。

同世代の作曲家としてはショパン(1810年生)やブラームス(1833年生)が挙げられ、和音の使い方などはやはりロマン派っぽい響きが濃厚。

ですが最大の強みである「ワルツ」のおかげで、同世代のクラシック作曲家とは一味違う輝きを放っていました。

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現代でも、ポップスとダンスミュージックってなんとなくジャンルが違いますよね。

【クラシック音楽】ワルツの名曲10選!優雅な気分に浸れる楽曲を紹介

父は「ワルツの父」と呼ばれたヨハン・シュトラウス

「シュトラウス2世」と呼ばれるのは、文字どおりヨハン・シュトラウスを父に持つからです。

父ヨハン・シュトラウスは「ワルツの父」と呼ばれていて、楽曲としてのワルツの構成を形作った人物でした。

そのためシュトラウス2世は幼いころからワルツ音楽が身近にあり、のちにワルツの第一人者となるのも頷けますよね。

サラブレッドだけど親からの教育はナシ!

パパ・シュトラウスから熱心な音楽教育を受けたと思われがちなシュトラウス2世ですが、実は真逆の幼少期を過ごしました。

パパ・シュトラウスはシュトラウス2世を「音楽家には絶対にしない」と断言していて、音楽教育を一切施しませんでした。

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さらにシュトラウス2世がお小遣いで買ったヴァイオリンを見つけて激怒、すぐに叩き壊したというエピソードも…

最終的に父親と和解するものの、若いころはなかなかの苦労人生だったようです。

シュトラウス2世の作風や性格は?

1800年代の社交界に君臨していたシュトラウス2世。

華やかな世界にウケる作風や、世渡りの上手さがあってこその大成功でした。

シュトラウス2世の作風

シュトラウス2世の作風は、とにかく華やか。

ロマン派音楽といえば「内省的な性格」をもつ曲が多いのですが、シュトラウス2世の曲はかなり前向きです。

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現代の私たちが聴いても心が明るくなるような楽曲が多く、ワルツに明け暮れるウイーンの人々が熱狂的になるのも分かりますね。

またメロディラインが優美で、曲が流れるように進むのもシュトラウス2世の魅力です。

シュトラウス2世の性格や交友関係は?

シュトラウス2世は「誰それと仲が悪かった」というウワサがほとんどありません。

ライバルだった父親とも最終的には和解していますし、民衆から皇帝にまでも愛された人柄でした。

ワーグナーとブラームスというライバル関係の2人とも仲が良かったりと、音楽家同士の交流も盛んで、いかにシュトラウス2世の人柄が良かったかが分かります。

へみ

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ちょっと女癖が悪かったようなのですが、他の作曲家に見られるようなドロドロ恋愛劇はありません。上手くやっていたのでしょうね(笑)

ヨハン・シュトラウス2世の半生を7つの名曲とともに紹介

それではシュトラウス2世の代表曲7つを、作曲された年順に紹介していきます。

ワルツ「記念の詩」

作曲年:1844年(18歳)

シュトラウスのデビューコンサートで演奏された曲です。

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当時のウィーンでは20歳にならないと音楽家としてデビューできないという法律があったのですが、シュトラウス2世は役所で直談判!

「父親が家にお金を入れないから自分が働かないといけない」などと訴えたため、当時有名人だったパパ・シュトラウスもスキャンダルに激怒したようです。

ちなみにこちらの曲を含むデビューコンサートは大成功に終わり、シュトラウス2世の華々しい音楽家人生が始まりました。

ミルテの花冠

作曲年:1854年(29歳)

イタリアやフランス、オーストリアを中心に起こった「1848年革命」で、シュトラウス2世は民衆側に思想が傾き、反政府的態度を取るようになります。

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その後革命は沈静したのですが、シュトラウスは依然宮廷から嫌われたまま…

シュトラウス2世はあきらめず宮廷への楽曲献呈を続けた結果、無事宮廷の仕事が得られるようになります。

ついには、皇帝の結婚に際して楽曲を依頼されるまでに!それがこの「ミルテの花冠」です。

ウイーンのボンボン

1866年(41歳)

1849年に亡くなった父の仕事をすべて引き受け、さらには宮廷の仕事も舞い込むようになったシュトラウス2世は、多忙を極める生活を送っていました。

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弟2人に仕事を分散させるなどしてなんとかしのいでいましたが、常に燕尾服を着ていないと仕事が回らないほど。

このウィーンのボンボンは「オーストリアのパリ駐在大使の妻」に献呈された曲で、翌年のパリ万博を見据えていたと言われています。

ウィーンだけでなく、周辺国を意識し始めたこの頃。フランスっぽい、ふわふわ明るい曲調が魅力的な曲です。

【参考】甘いメロディのクラシック音楽10選

美しく青きドナウ

1867年(42歳)

言わずと知れた、シュトラウス2世の代表曲です。

原曲は、ウィーン男声合唱協会の依頼で作った「男声四部合唱」でした。

演奏会の直前まではピアノ伴奏で演奏される予定だったこの曲は、直前になりオーケストラ伴奏で演奏されることに!

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シュトラウス2世がほぼ即興で作ったオーケストラ版でしたが、これが思わぬ大ヒット!

今では第二の国歌としてオーストリア国民に愛されています。

ワルツ「酒、女、歌」

作曲年:1869年(44歳)

このころのシュトラウス2世は、ロシア宮廷との「太い契約」があったおかげで、一族全員が大金持ちでした。

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ですが豪遊する間もなかったシュトラウス2世は、引き続き作曲活動を精力的に行っていきます。

この曲には「酒と女と歌を愛さぬ者は、生涯馬鹿で終わる」という格言が元となった詩が使われています。

ワーグナーが好んだことでも有名で、男のロマンが盛り込まれつつ気品が失われてない、魅力的な曲です。

オペレッタ「ウィーン気質」

作曲年:1873年(48歳)

1870年に相次いで母と弟を亡くしてから、シュトラウス2世は一気に作曲に対する情熱が薄れていってしまいます。

そこで当時の妻が「オペレッタに挑戦してみたら」と提案。

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当時オペレッタは、天国と地獄で知られるオッフェンバックが第一人者で、最初はシュトラウスも乗り気ではありませんでした。

ところがオペレッタを作曲すると思わぬ高評価を得、シュトラウス2世は活動の中心をオペレッタに移すことに。

多忙の原因だった「指揮者業」も弟に譲り、作曲に専念していくようになりました。

オペレッタ「こうもり」より序曲

作曲年:1874年(49歳)

ウィーン・オペレッタの王様と称されるオペレッタで、今でも世界中で上演される演目です。

みんな幸せになる台本、シュトラウス2世の華やかなワルツと相まって、初演から大好評!

オッフェンバックからオペレッタ王の称号を奪い、さらにシュトラウス2世の人気はうなぎ上りとなりました。

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シュトラウス2世は「十大ワルツ」をはじめとして500曲近くの楽曲が出版されています。

ロマン派の優美さとウィーン社交界の華やかさが見事にマッチしたシュトラウス2世の楽曲は、パーティーシーンやディナーのBGMにもぴったり!

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hemmi

hemmi

3歳からピアノ、12歳でクラリネットを始める。全国屈指の音楽高校に進学し、そのまま音大に進学。
音高音大では専攻のクラリネット演奏のほか、作曲編曲で作品を提供。
首席で音大を卒業後は演奏活動や指導をしつつ執筆活動を行っている。

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