ベートーヴェン(ベートーベン)の死後、仕事机に細工された秘密の引き出しから、二点の女性の細密画とともに、一通の手紙が見つかりました。鉛筆で書かれた、十ページにおよぶ熱烈な恋文です。
宛先には「私の不滅の恋人」とだけ記され、相手の名前も、書かれた年も、はっきりとした場所もありません。
ヨーロッパの音楽を一変させた作曲家は、最も深い秘密として、相手の名を明かさない一つの恋を残しました。その相手は誰だったのか。
これは、二百年にわたって人々を惹きつけてきた謎です。候補として名の挙がった女性たちを一人ずつ検討しながら、この二百年来の謎を追っていきます。
三日間の手紙
手紙は、一気に書かれたものではありませんでした。ある日の朝に始まり、月曜日の夕方、そして翌朝へと、二日にわたって書き継がれています。
旅先の宿で、おそらくは眠れぬままに、鉛筆を走らせたものでした。「私の天使、私のすべて」という呼びかけで始まる文面は、会えない苦しさ、二人を隔てる事情への嘆き、それでも結ばれることへの願いの間を、激しく揺れ動きます。
喜びと絶望、断念と希望が、同じ筆の中で渦を巻いている――そんな手紙です。
「私たちの愛は、犠牲によってしか、多くを求めないことによってしか成り立たない」。そう自分に言い聞かせる一方で、彼は「君と完全に暮らすか、まったく暮らさないか」という二者択一の前で身もだえします。
冷静な断念と、抑えがたい情熱とが、行を追うごとにせめぎ合うのです。そして結びは、こう締めくくられます。
永遠に君のもの、永遠に僕のもの、永遠に僕たちのもの。
(ベートーヴェン「不滅の恋人」への手紙、1812年7月)
注目すべきは、ベートーヴェンがこの手紙を投函しなかったことです。手紙は彼自身の手元に残され、生涯持ち続けられ、死後にようやく発見されました。
誰かに届けるためというより、自分の胸の内を刻みつけるために書かれた一通だったのかもしれません。
なぜ「謎」なのか
恋文が残ること自体は、珍しくありません。この手紙が「謎」となったのは、ベートーヴェンが肝心の情報を、何ひとつ書き残さなかったからです。
相手の名前はなく、「私の不滅の恋人」と呼びかけられるだけ。年号はなく、日付は「7月6日」「月曜日の夕方」「7月7日、おはよう」と、曜日と日付しかありません。
場所も、地名の頭文字でほのめかされるだけです。手書きの恋文に年や宛名がないのは、当人どうしには自明だったからでしょう。
けれど後世の私たちには、この省略が、相手と時期を割り出すための長い探偵仕事の出発点になりました。
年代の特定 ── 1812年、ボヘミアの湯治場
最初の手がかりは、日付でした。「月曜日が7月6日にあたる年」という条件と、便箋の透かしなどの物証から、手紙が書かれたのは1812年と特定されています。
1812年の夏、ベートーヴェンはボヘミアの湯治場、テプリッツやカールスバート、フランツェンスブルンに滞在していました。当時の湯治場は、ヨーロッパ中の貴族や文化人が集う社交の舞台でもあります。
文豪ゲーテと初めて顔を合わせ、連れ立って散歩したのも、この旅でのことでした。手紙の便箋の透かしを手がかりに年代を突き止めたのは、のちにアメリカの研究者ソロモンらでしたが、この物証によって、長く割れていた「何年の手紙か」という争いには、ひとまず決着がついたのです。
そして、この頃から書き始められた彼の『日記』には、「1812年の10月には、私はBのためにリンツにいた」という一節があります。テプリッツを発った彼が、なぜかウィーンへ直行せずリンツへ向かった――その理由が、「B」と記された誰かにあったらしいのです。
従来、この「B」は弟(Bruder)ヨーハンのことだとされてきました。しかし、それならば頭文字は「J」になるはずだ、と青木は指摘します。
「B」は、ブレンターノの頭文字とも、ブルンスヴィックの頭文字とも読めるのです。いずれにせよ、手紙が1812年夏のボヘミアで書かれたのなら、相手はその時期、その地にいた女性だったことになります。
捜索の範囲は、こうして絞られていきました。
候補者たちの行列
「不滅の恋人」の座をめぐっては、一世紀以上にわたって、何人もの女性の名が挙げられてきました。
早くから名が出たのは、「月光」ソナタを献じられたジュリエッタ・グイチャルディです。ただ、彼女は1803年に別の男性と結婚しており、1812年という年代とは噛み合いません。
長く世界的に支持されたのは、テレーゼ・ブルンスヴィック説でした。しかし1949年以降、この説は決定的に揺らぎます。
ベートーヴェンがテレーゼの妹、ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック(のちのダイム伯爵未亡人)に宛てた十三通もの恋文が、百五十年近くを経て突如出現したからです。そこには、三十代のベートーヴェンの真剣な思いが綴られていました。
たとえば、ある一通には「あなたにお会いしたとき、けっしてどのような愛情も抱くまいと固く決心していました。しかしあなたは、私を征服してしまったのです」とあります。
このほかにも、ベートーヴェンの天才を早くから見抜いた才女ベッティーナ・ブレンターノや、1812年にテプリッツにいた歌手アマーリエ・ゼーバルトなど、候補は次々に挙げられました。それぞれに根拠があり、それぞれに難点がある。
決め手を欠いたまま、議論は続いてきたのです。
謎がこれほど長く尾を引いたのには、理由もあります。手紙が公にされたのはベートーヴェンの死後で、しかも当時の人々は、当事者の名誉に配慮して多くを語りませんでした。
関係する書簡が、長らく人目に触れない場所に眠っていた例も少なくありません。先のヨゼフィーネ宛の手紙が日の目を見たのが百五十年近くも後だったように、新しい資料が見つかるたびに、有力候補は入れ替わってきたのです。
青木の答え ── アントーニア・ブレンターノ
この謎に、青木やよひは1959年、一つの答えを示しました。「不滅の恋人」はアントーニア・ブレンターノである、と。
十年あまり後、アメリカの研究者マイナード・ソロモンも独立に同じ結論に達し、これは今日もっとも有力な説となっています。
アントーニアとは、どのような女性だったのでしょうか。彼女はウィーンの収集家ビルケンシュトックの娘に生まれ、フランクフルトの大商家ブレンターノ商会を率いるフランツ・ブレンターノに嫁いでいました。
フランツは、先のベッティーナの異母兄にあたります。ベートーヴェンは、亡くなった父の膨大な収集品を整理する彼女を手助けし、稀覯本や古い楽器を後援者ルドルフ大公に仲介したりしながら、いつしか彼女を愛称の〈トーニ〉と呼ぶようになります。
子ども好きの彼は、アントーニアの娘たちもかわいがりました。とりわけ長女マクシミリアーネは「小さなお友だち」で、のちに彼女へピアノ・ソナタの一曲(作品109)が献じられています。
教養が深くゲーテを愛読する母アントーニア自身も、彼にとって得がたい話し相手でした。体調を崩して臥せりがちだった彼女のために、ベートーヴェンはピアノを弾いて慰めたとも伝えられます。
言葉を交わさずとも、隣室から流れてくる音楽が、病んだ心を支える――そんな関係が、二人の間には育っていました。
ここに、近年明らかになった事実が重なります。2001年に発表されたコピッツの論文は、それまで知られていなかった夫妻の私的な手紙を公にし、通説を覆しました。
一家そろってウィーンで暮らしていたとされてきたブレンターノ夫妻は、実質的には別居状態にあり、フランクフルトに事業の拠点を持つフランツは、めったにウィーンを訪れていなかったのです。アントーニアは嫁ぎ先で重い心身の不調を病み、新しい人生をやり直そうと実家に戻っていました。
ベートーヴェンはそのことに長く気づかず、彼女を幸せな人妻だと思っていた――だからこそ、夫の不在の邸に、身内のように出入りできた、と青木は読みます。そして1812年の夏、そのアントーニアもまた、ベートーヴェンと同じボヘミアの湯治場に滞在していました。
点と点が、一本の線で結ばれていくのです。
それでも、決着はついていない
もっとも、この謎が完全に解けたわけではありません。手紙が誰の名も記していない以上、百パーセントの確証は、原理的に得られないのです。
今日でも、ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック説を支持する研究者は少なくありません。彼女の日記や、のちの出産の時期を手がかりに、相手はヨゼフィーネだったと論じる立場です。
アントーニア説が有力だとしても、それが唯一の答えだと断じることはできません。むしろ、この記事の値打ちは、確定した答えよりも、これだけの女性たちの名が挙がり、検証され続けてきたという事実そのものにあるのかもしれません。
青木の解釈には、独自の視点も光ります。アントーニアが人妻であったこと、ヨゼフィーネとの間には妊娠という事情があったこと――そうした女性の側の現実に目を向けて二人の別れの理由を読み解いた点に、女性研究者ならではの筆致がある、と評されています。
別れと、その後
ばら色に見えた1812年の夏のあと、ベートーヴェンの『日記』は、突然、凍てついた荒野の嵐のような調子に変わります。同じ年の秋から書き始められたその『日記』には、運命への服従を自らに言い聞かせる、痛切な一節があります。
服従、おまえの運命への心底からの服従、それのみがおまえに犠牲を――献身としての犠牲を負わせうるのだ。
(ベートーヴェン『日記』。出典:青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー、p.186)
翌1813年、彼が珍しく「5月13日」と日付を書き込んだ『日記』には、家庭的な生活への願いを断たれた嘆きが綴られています。この「5月13日」は、彼が「交響曲第7番」の自筆譜に記した日付と一致します。
青木は、恋人たちが将来の生活設計を取り決めた記念すべき日だったのではないか、と推し量ります。だとすれば、わずか一年の間に、二人の「至福の極み」は決定的に打ち砕かれたことになります。
そしてこの打撃は、単なる失恋にとどまりませんでした。青春時代から人に語り、自らのよりどころとしてきた人生哲学そのものを、根底から揺るがすものだった、と青木は記します。
ベートーヴェンは、生涯結婚しませんでした。1816年頃には、アントーニアとの間に、以前とは違う穏やかな友情が回復します。
彼は心のこもった言葉を添えて、自分の肖像画を彼女に贈りました。1817年に書かれた歌曲「あきらめ」が「わが光よ、消えよ」と歌うとき、彼は五年来手放せずにいた夢を、自らの手で消し去ったのでしょう。
失われた愛は、やがて作品へと注ぎ込まれていきます。苦悩を通じてこそ歓喜をかち得る――エルデーディ夫人に書き送ったその信条は、のちに「第九」が高らかに歌い上げるものでもありました。
結び ── 名前のない愛が残したもの
「不滅の恋人」が誰だったのか。その答え以上に、この手紙が私たちに伝えるのは、岩のように頑固で孤高と見られた人物の内側に、これほど激しく傷つきやすい心があったという事実です。
すべての人が兄弟になると歌った作曲家が、ただ一人との結びつきだけは、ついに手に入れられませんでした。
机の奥にしまわれた一通の恋文は、その満たされなかった願いの、最も静かな証言です。沈黙の中で書かれた音楽が、なぜあれほど多くの人の胸を打つのか――その秘密の一端が、この名前のない手紙にも宿っているように思われます。
ベートーヴェンの生涯そのものについては前編・後編で、彼が「すべての人へ」歌わせた「第九」の成り立ちについては、別稿で辿っています。
参考文献
主要参考文献
- 『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ/平凡社(平凡社ライブラリー)/2018年(原本:平凡社新書、2009年)
- 『ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究』青木やよひ/講談社
書籍内引用
- ベートーヴェン「不滅の恋人」への手紙(1812年7月)
- ベートーヴェン『日記』(1812年〜)
- ベートーヴェンの手紙(マリー・フォン・エルデーディ伯爵夫人宛、1815年10月19日付)
補足参照
- マイナード・ソロモン『ベートーヴェン』(「不滅の恋人」をアントーニア・ブレンターノとする説)
- クラウス・マルティン・コピッツ「ウィーンにおけるアントーニア・ブレンターノ」(2001年)
- Beethoven-Haus Bonn(公式デジタルアーカイブ、「不滅の恋人」書簡)
