才能を世間に消費され、貧困のうちに若くして死に、雨の中、会葬者もないまま共同墓地の穴に投げ込まれた――モーツァルトといえば、こうした悲劇的な最期のイメージがつきまといます。映画『アマデウス』のさびしい埋葬の場面も、その印象を強めました。
けれど、近年の研究は、この「神話」にいくつもの修正を迫っています。この「貧乏で共同墓地」という通説を、一つずつ検証していきます。
通説 ── 貧困のうちに死んだ天才
まず通説を確認します。移り気な人々に消費され、本当の意味では認められぬまま、借金にまみれて35歳で病死。
葬儀は最も簡素なもので、目印もない共同の墓穴にまとめて埋められ、その場所は今も分からない――。早世した天才の悲運の物語として、長く語り継がれてきたイメージです。
これは、どこまで本当なのでしょうか。一つずつ見ていきます。
検証① 収入 ── むしろ高給取りだった
まず、収入です。音楽学者フォルクマール・ブラウンベーレンスの調査によれば、ウィーンで活動した1781年から1791年にかけて、モーツァルトの年収は平均しておよそ3,000から4,000グルデンに達していました。
当時としては、音楽家の中でも飛び抜けた高収入です。少なくとも収入の面では、彼は決して「貧しい音楽家」ではありませんでした。
実際、死の直前にも経済的な立て直しは進んでおり、息子フランツ・クサヴァーを学費のかかる私立の学校に通わせられるほどでした。「貧困のうちに死んだ」という像は、収入の実態とは食い違っているのです。
検証② 借金 ── では、なぜ金に困ったのか
ところが、これだけ稼ぎながら、モーツァルトには多額の借金もありました。友人で同じフリーメーソンのプフベルクに宛てた、お金の無心の手紙が何通も残っています。
つまり彼の問題は、絶対的な貧困ではなく、収入を上回る支出――派手な暮らしぶりと、やりくりの破綻だったのです。高い家賃の住まいに移り、使用人を抱え、立派な身なりを好み、玉突きやカードといった賭け事にも親しみました。
稼ぎは多くても、出ていくお金はそれを上回っていたのです。
その背景には、当時の音楽家が置かれた、不安定な経済構造もありました。岡田暁生が指摘するように、予約演奏会や楽譜出版が広まりはじめたこの時代、それは、
作曲家たちにとって、経済的自立のための願ってもないチャンスだった。
(出典:岡田暁生『西洋音楽史 ──「クラシック」の黄昏』中公新書、p.107前後)
モーツァルトは、宮廷に安定して仕えるのではなく、この新しい自由市場で身を立てようとした先駆者でした。しかし著作権の保護も未整備で、収入は景気に大きく左右されます。
折しもトルコとの戦争で通貨が下落し、貴族が音楽への出費を控えた1788年前後には、彼の収入も落ち込みました。さらに、知人のカール・リヒノフスキー侯をめぐる一件が追い打ちをかけます。
侯爵はモーツァルトを伴ったベルリン旅行で多額の借金をしながら、帰国後に返済を拒み、あろうことか1791年の夏、モーツァルトを相手取って裁判を起こして勝訴したのです。それでも、最晩年の彼は「皇帝ティートの慈悲」や大評判となった「魔笛」を世に出し、暮らし向きは再び上向きつつありました。
死の瞬間の彼は、転落の底ではなく、回復の途上にいたのです。
検証③ 共同墓地 ── 貧しさではなく、法律だった
では、なぜ共同墓地に葬られたのでしょうか。ここが、最大の誤解の核心です。
理由は、貧しさではなく、当時の法律でした。モーツァルトの時代のハプスブルク家当主ヨーゼフ2世は、市内での病気の蔓延を防ぐため墓地を郊外へ移し、さらに、華美になりすぎた葬儀を戒めて、質素な埋葬を制度化していました。
1784年、モーツァルトの死の7年前のことです。この改革のもとでは、墓石も防腐処理もなく、多くの遺体が簡素に埋葬されました。
一定の年数が過ぎれば掘り返して整理し、新たな遺体を埋葬する、という再利用も定められていました。
モーツァルトが葬られたのは、こうしてできた郊外の墓地の一つ、ザンクト・マルクス墓地です。目印のない共同墓地への埋葬は、極貧ゆえの仕打ちではなく、当時のウィーン市民にとっての、ごく標準的な弔いの形でした。
むしろ、墓石を立てた永代の個人墓のほうが、追加の費用を払える一部の富裕層だけに許された特別な扱いだったのです。彼の埋葬場所が分からなくなったのも、遺族が墓を放置したからではなく、墓を再利用するこの制度のためでした。
検証④ 葬儀 ── 嵐に見捨てられた、のか
「吹雪のため、会葬者がみな引き返してしまった」という有名な逸話も、後世の脚色だと考えられています。その日の天候は穏やかだったとする説もあります。
当時の慣習では、棺を乗せた馬車は郊外の墓地へ運ばれ、墓穴のそばまで人々が付き添わないことは珍しくありませんでした。墓掘り人だけが立ち会う埋葬は、見捨てられた証ではなく、改革後の標準的な手順だったのです。
費用を惜しんだとして妻コンスタンツェが責められることもありますが、これも公平を欠きます。夫の死後、二人の幼子と借金を抱えた彼女は、皇帝レオポルト2世に窮状を訴えて遺族年金を勝ち取り、追悼演奏会を企画し、夫の作品の出版を取りまとめて、しだいに生活を安定させていきました。
彼女は、無力な未亡人どころか、有能な遺産の管理者だったのです。
検証のまとめ
整理します。モーツァルトは、高い収入を得ながら、浪費と不安定な経済構造のために借金を抱えていました。
けれども死の直前には立ち直りつつあり、「貧困のうちに死んだ」という像は実態と異なります。そして共同墓地への簡素な埋葬は、ヨーゼフ2世の改革による、当時としてはあたりまえの弔い方であって、貧しさや不名誉のしるしではありませんでした。
「貧乏で共同墓地」という通説の大部分は、悲劇の天才を求めるロマン主義的な神話だった、というのが現在の見方です。もっとも、彼が借金を抱えていたことや、簡素な最期だったこと自体は事実で、伝統的な悲運の物語もなお根強く語られています。
ベートーヴェンと同じ街で
この物語には、当サイトにとって見過ごせない縁があります。モーツァルトを訴えたあのリヒノフスキー侯は、その翌1792年、ウィーンにやってきた若きベートーヴェンを、物心両面で手厚く援助するパトロンになるのです。
ハイリゲンシュタットの遺書で弟たちに託された楽器も、この侯爵から贈られたものでした。
同じウィーンで、同じ自由市場に身を投じながら、ベートーヴェンはモーツァルトより安定した足場を築きます。三人の貴族による年金と、軌道に乗りはじめた楽譜出版が、その支えでした。
そして二人の最期は、対照的でした。1791年、モーツァルトはヨーゼフ2世改革下の簡素な埋葬で送られました。
それから36年後の1827年、ベートーヴェンの葬列には、数万のウィーン市民が詰めかけます。わずか一世代のうちに、作曲家は、市民が公然と弔う英雄へと変わったのです。
この変化こそ、音楽が宮廷から市民の手へ移っていった時代の、何よりの証でした。
結び ── 神話の向こうの実像
魅力的な悲劇は、ときに事実より長く生き延びます。モーツァルトの「貧乏で共同墓地」の物語も、そうした神話の一つでした。
実像のモーツァルトは、新しい時代の自由市場を駆け抜けようとした、収入も支出も大きい、生身の音楽家だったのです。
ベートーヴェンの壮大な葬儀については後編で、同じくモーツァルトをめぐるもう一つの謎――「レクイエム」が未完に終わった事情については、別稿で取り上げています。
参考文献
主要参考文献
- 『西洋音楽史 ──「クラシック」の黄昏』岡田暁生/中央公論新社(中公新書)/2005年(予約演奏会・楽譜出版と作曲家の経済的自立について)
書籍内引用
- 楽譜出版・演奏会と作曲家の経済的自立について(岡田暁生『西洋音楽史』)
補足参照
- フォルクマール・ブラウンベーレンス『モーツァルト 神話の解体』(晩年の収入に関する調査)
- 「モーツァルトの死」日本語版Wikipedia(埋葬・遺族年金・借金について)
- ヨーゼフ2世の埋葬改革とザンクト・マルクス墓地に関する各種資料
