世界でもっとも広く知られた旋律のひとつである「歓喜の歌」は、一夜にして生まれたわけではありません。その種が一人の青年の胸に蒔かれてから、交響曲として響くまでに、30年以上の歳月が流れています。
この「交響曲第9番」がどのように生まれたのかを、シラーの詩との出会いから初演、そして日本での定着まで辿ります。
ボンの青年が夢みた詩
物語は、前編で触れたボン時代にさかのぼります。フランス革命の報せに沸く空気の中で、18歳のベートーヴェン(ベートーベン)は、シラーの長編詩「歓喜に寄せて」に曲をつけたいと願いました。
1793年には、ボンの友人で法学者のフィッシェニヒが、シラー夫人に宛てて「彼はシラーの『歓喜』を、一節も余さず作曲しようと企てている」と書き送っています。この計画はすぐには実りませんでしたが、思いは消えませんでした。
青木によれば、のちに「歓喜の主題」となる旋律の原型は、早くも1795年の歌曲(WoO 118)に顔を出し、以後、彼の中で繰り返し現れる潜在的な主題になったといいます。1808年の「合唱幻想曲」は、オーケストラに合唱を加えるという、のちの第九につながる試みでもありました。
種は長いあいだ、彼の内側で熟成を続けていたのです。
「ミサ」を書き終えて
その種が一気に芽吹くのは、晩年でした。1819年から数年をかけて、ベートーヴェンは壮大な宗教曲「ミサ・ソレムニス」を完成させます。
後援者ルドルフ大公の大司教就任を祝うために起筆されたこの大作は、規模も難度も並はずれており、彼自身が「私の最大の作品」と呼んだほどでした。そして、それを書き終えるやいなや「第九」に取りかかったことに、青木は深い意味を読み取ります。
教会の典礼のための「ミサ」では祈りきれなかった何かが、彼の中に残っていた。自分の〈内なる神〉が、教会の神の枠に収まらないものへと変わりつつあることに、彼は気づいたのではないか――そう青木は推し量ります。
もし「ミサ」で彼の祈りが満たされていたら、今日私たちが知るような「第九」は生まれなかったかもしれない、というのです。第九が、特定の宗派の神ではなく、人類そのものへ向けて開かれていく理由が、ここにあります。
交響曲に合唱を据えるという前例のない構想が固まったのは、1822年のある日のことでした。長く別々に温められてきた要素が、一瞬にして一つに結びつく。
自分の最後のメッセージは、これだ――そう閃いたに違いない、と青木は書いています。
シラーの詩を、自分の言葉に
ベートーヴェンは、シラーの詩をそのまま用いたわけではありませんでした。16連にもおよぶ長い詩の中から、自分の心にぴったりくる6連だけを選び出し、順序を入れかえ、ある部分を繰り返して、完全に自分自身の思想表現になるまで作り変えていきます。
そして決定的なのは、合唱が始まる導入部に、シラーにはない自分自身の言葉を書き足したことでした。
おお友よ、このような調べではない。
(ベートーヴェンが「交響曲第9番」終楽章に書き加えた一節。出典:青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー、p.234前後)
それまでの楽章を一度否定し、これから歌われるべき「歓喜」へと聴き手を導く、宣言のような三行です。続いて低弦から立ちあがる「歓喜の主題」そのものは、驚くほど単純で、誰にでも口ずさめる旋律でした。
ベートーヴェンが何十冊ものスケッチ帳の中で、この一見素朴なメロディーを何度も練り直していたことが知られています。技巧をこらすのではなく、あらゆる人が声を合わせられる平明さへとそぎ落としていく――それは、万人に開かれた歌をめざす、意識的な選択でした。
フリーメーソンでもあった青年シラーが書いたこの詩は、地球規模の人類愛と、差別なき兄弟愛を高らかにうたっていました。それは、ベートーヴェンの心をとらえるのに十分だったのです。
すべての人間は兄弟となる ── 「第九」と〈神〉
「歓喜の歌」がうたう「すべての人間は兄弟となる」という理想は、特定の宗派の神に向けられたものではありません。詩がたたえる〈創造主〉は、教会の神のように限定されてはいない、星空の彼方に住む愛する父であり、その世界観は、父たる天と母たる大地という象徴的な宇宙観に貫かれている、と青木は説きます。
あらゆる生き物が自然の乳房から喜びを飲む――シラーのこの一節に込められた、地球上のどの地域にも通じる普遍的な神のイメージは、ベートーヴェン自身の宗教観とも重なっていました。第九がヨーロッパだけでなく、中南米やアフリカでも歓迎され、日本でも早くから広く愛されてきたのは、その普遍性に理由があるのかもしれない――青木はそう示唆しています。
哲学者カントが「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則」と書いたあの感覚に、ベートーヴェンの音楽はどこかで触れているのです。
ベルリンか、ウィーンか ── 初演をめぐる攻防
完成した大作を、どこで初演するか。これが、ひと騒動になりました。
当時のベートーヴェンは、イタリア・オペラの流行に沸くウィーンの聴衆に愛想を尽かし、初演を国外、ベルリンで行おうと考えていたのです。
これに動いたのが、ウィーンの音楽愛好家たちでした。1824年、彼らは初演をウィーンで行ってほしいと懇願する嘆願書を差し出します。
署名したのは31名、呼びかけ人はモーリッツ・リヒノフスキーでした。一介の作曲家のために、街の名士たちが連名で請願する――それ自体が、当時としては異例のことでした。
宮廷や教会に仕える職人ではなく、社会に向かって自分の理念を語る一個の芸術家として、ベートーヴェンがすでに別格の存在になっていたことを、この出来事は物語っています。ところが、この純粋な好意から出た行動を、ある小新聞が「ベートーヴェンが自分でそそのかしたのだ」と書き立てます。
猜疑心の強かった彼は、これにひどく傷つきました。それでも、この一件をきっかけに、初演の準備は前へ進みます。
リヒノフスキー、ヴァイオリニストのシュパンツィヒ、秘書のシントラーが中心となり、甥のカールや弟のヨーハンまでが駆け回りました。
1824年5月7日
幾多の紆余曲折を経て、初演は1824年5月7日、ウィーンの宮廷劇場で実現します。プログラムは三部構成でした。
序曲「献堂式」、「ミサ・ソレムニス」から「キリエ」「クレド」「アニュス・デイ」の三曲、そして「交響曲第9番」です。ミサの楽章が「三つの大讃歌」という名で演奏されたのは、教会音楽をそのまま劇場で上演することがはばかられたためでした。
指揮台には、ベートーヴェン本人が立ちました。実際の指揮はミヒャエル・ウムラウフとシュパンツィヒが担い、その傍らで彼が全体の身ぶりを示す、という形です。
演奏は、新しい手法に不慣れな奏者や練習不足のために、完全とは言えませんでした。それでも会場の感動は大きく、第二楽章のティンパニのソロが入る箇所では、湧き起こった拍手で一瞬音が聞こえなくなったほどでした。
その第二楽章スケルツォのめくるめく主題は、シェーンブルンの森で夕暮れに構想を練っていたときに浮かんだものだと、ベートーヴェンが親しいカール・ホルツに語った、というエピソードも伝わっています。
けれど、聴衆に背を向けて立っていたベートーヴェンには、その歓呼が届きません。曲が終わってもなお総譜に目を落としている彼の袖を、独唱者のカロリーネ・ウンガーが引いて、客席へ振り向かせました。
総立ちの聴衆が、帽子とハンカチを振っていました。すべての人の歓喜を歌う音楽を書いた当人だけが、その音楽も、その喝采も、ついに自分の耳で聴くことはなかったのです。
歓喜は、世界へ
第九が後世に与えた影響は、はかりしれません。器楽の交響曲に声楽を統合し、宇宙的な高みへと至ろうとするその試みは、のちのマーラーらが書く「世界観音楽」とでも呼ぶべき巨大な作品群の手本になりました。
交響曲を聴くことが、ほとんど一つの宗教体験になっていく――その源流が、ここにあります。
岡田暁生は、第九の終楽章を、こう位置づけています。
すべての人々に開かれた音楽。
(出典:岡田暁生『西洋音楽史 ──「クラシック」の黄昏』中公新書、p.126)
「一〇〇〇人の第九」と呼ばれる催しが示すように、ここでは万人が参加できる音楽の祝典が、現実になりました。もっとも岡田は、その終楽章の集団的な高揚に、行進曲やシュプレヒコールにも通じる単純化を感じ取り、拒絶反応を示してきた人々がいることにも、目を向けています。
誰もが声を合わせられる強さと、その強さへのためらい。二つながらに引き受けているからこそ、第九は二百年を経てなお論じられ続けるのでしょう。
その普遍性を、もっとも鮮やかに物語るのが、日本です。第九が日本で初めて全曲演奏されたのは、1918年6月1日、徳島県の板東俘虜収容所でのことでした。
第一次世界大戦で捕虜となったドイツ兵たちが、女声パートを男声に書き換えて演奏したのです。戦時下にあって、国境も人種も超えて「すべての人間は兄弟となる」がうたわれた――その逸話は、第九という作品の理念を、これ以上ないかたちで体現しています。
日本人による公開初演は、その6年後の1924年11月、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)で行われました。第九が年末と強く結びついたのは、さらにのちのことです。
戦中戦後の困難な時代に、学徒の壮行や戦没者の追悼として歌われ、大晦日のラジオ放送が全国に届けられるうちに、第九はいつしか「年の瀬の風物詩」として日本の暮らしに根を下ろしていきました。一人の作曲家が人類に贈った歌が、地球の反対側で、毎年の暮らしの一部になっている――これもまた、「すべての人間は兄弟となる」という願いの、ひとつの実りなのでしょう。
結び
30年以上前に蒔かれた一粒の種が、完全な沈黙の中で書き上げられ、国境を越えて歌い継がれる、人類共通の歌になりました。耳の聞こえない作曲家が、聴くことのできない歓喜を、世界に贈ったのです。
ベートーヴェンが沈黙へ向かった前半生は前編で、その絶望から第九までの後半生は後編で辿りました。彼が机の奥に隠し続けたもう一つの秘密、「不滅の恋人」については、別稿で掘り下げています。
参考文献
主要参考文献
- 『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ/平凡社(平凡社ライブラリー)/2018年(原本:平凡社新書、2009年)
- 『西洋音楽史 ──「クラシック」の黄昏』岡田暁生/中央公論新社(中公新書)/2005年
書籍内引用
- ベートーヴェンが「交響曲第9番」終楽章に書き加えた一節(「おお友よ、このような調べではない」)
- フリードリヒ・フォン・シラー「歓喜に寄せて」(第九終楽章の歌詞の原詩)
補足参照
- フィッシェニヒからシャルロッテ・シラー宛の手紙(1793年、ベートーヴェンの「歓喜」作曲計画について)
- 鳴門市公式ウェブサイト「なると第九」(1918年・板東俘虜収容所での日本初演について)
- Beethoven-Haus Bonn(公式デジタルアーカイブ)
