1824年、「第九」を世に問うたベートーヴェン(ベートーベン)に残されていたのは、わずか3年足らずの歳月でした。完全に音を失い、甥カールの問題に心をすり減らすこの最晩年に、彼が情熱を注いだのは、大編成の交響曲ではありません。
弦楽器四つだけの、もっとも親密なジャンル――弦楽四重奏曲でした。当時の人々を当惑させ、いまでは西洋音楽の最高峰の一つに数えられる五つの作品。
それが、彼の遺した最後の音楽です。作曲家として最後にたどり着いた、この後期弦楽四重奏曲の世界をご案内します。
五つの、最後の四重奏曲
後期の弦楽四重奏曲とは、第12番(作品127)、第13番(作品130)、第14番(作品131)、第15番(作品132)、第16番(作品135)の五曲、そしてもともと第13番の終楽章だった「大フーガ」(作品133)を指します。いずれも1824年から26年にかけて書かれました。
五曲は、それぞれに異なる相貌を持っています。第12番は、伸びやかな歌に満ちた、後期への入り口となる作品。
第15番は、先に触れた感謝の歌を中心に据えた祈りの音楽。第13番は、軽やかな舞曲から、聴く者の胸をしめつける緩徐楽章「カヴァティーナ」まで、性格の異なる六つの楽章を並べます。
そして第14番(作品131)は、七つの楽章を切れ目なく続けて演奏するという、前代未聞の構成をとりました。ベートーヴェン自身がとりわけ愛したとも、のちにワーグナーが熱烈に讃えたともいわれる一曲です。
最後の第16番は、簡潔で澄みきった筆致で、全体を静かに閉じます。
きっかけは、ロシアの貴族ガリツィン公からの依頼でした。三曲の四重奏曲を、という注文に応えるかたちで作品127・132・130が生まれ、そこから残りの作品へと筆が進みます。
ベートーヴェンが前に弦楽四重奏曲を書いてから、すでに14年が経っていました。頭の中には「第十交響曲」の構想もあったといいます。
その大作を含むさまざまな計画をさし置いて、彼は弦楽四重奏曲という、いわば地味なジャンルで、大作曲家としての生涯を締めくくることになりました。
このことを、秘書のシントラーは心底残念がり、その責任をガリツィン公に押しつけたほどです。彼にとって、偉大な作曲家の重要な作品は、大規模なものでなければならなかったのでしょう。
けれど青木やよひは、その見方にはっきりと異を唱えています。
「人生の夕暮れに、再び力を」── 作品132
五曲の中でも、ひときわ深い祈りに満ちているのが、第15番(作品132)です。その第3楽章には、特別な由来があります。
1825年の春、最初の一曲(作品127)を仕上げて次の作品132に取りかかってまもなく、ベートーヴェンは激しい病に倒れました。腸の不調に始まり、吐血をともなって消化器全体が冒される、深刻な状態です。
療養地で日に日にやせ衰え、さすがの彼も体力の衰えに絶望しました。それだけに、5月になって仕事を再開できたときの喜びは大きく、彼は手帳に「人生の夕暮れに、自分自身を見いだすために、ふたたび力を与えられた」と書きつけます。
この感謝が、第3楽章のアダージョに添えられた標題になりました。
病から癒えし者が神に捧げる、聖なる感謝の歌。
(ベートーヴェンが弦楽四重奏曲第15番・作品132の第3楽章に記した標題。当サイト訳。青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー、p.241前後も参照)
古い教会旋法を用いて書かれたこの楽章は、痛みの底からゆっくりと立ちのぼる感謝の音楽として、聴く者の胸を打ちます。1825年11月の初演でも、この楽章はとりわけ聴衆を感動させました。
大フーガ ── 早すぎた終楽章
最晩年のベートーヴェンが踏み込んだ前人未到の領域を、もっとも鮮やかに示すのが「大フーガ」です。これはもともと、第13番(作品130)の終楽章として書かれました。
しかしこの巨大なフーガは、当時の音楽家たちの常識をはるかに超えて難解で、演奏も至難でした。これらの作品の初演を担ったのは、ベートーヴェンと旧知のヴァイオリニスト、シュパンツィヒが率いる四重奏団でした。
腕利きの彼らをもってしても、後期の四重奏曲は容易な相手ではなく、どの初演でも、限られた愛好家にすら理解されません。とりわけ大フーガの評判は、惨憺たるものでした。
そこで出版社や友人の強い勧めにより、ベートーヴェンはこれを独立した一曲「大フーガ」(作品133、ルドルフ大公に献呈)として切り離し、作品130のためには、新しい終楽章を別に書くことにしました。その新しい終楽章が完成したのは、1826年11月。
彼が世を去るわずか数か月前のことで、これが事実上、ベートーヴェン最後の作品となりました。
弦楽四重奏曲の歴史において、この「大フーガ」の真の後継者が現れるのは、20世紀のバルトークを待たねばなりません。あまりに先を行っていたのです。
現代では、ベートーヴェンの当初の意図を尊重して、「大フーガ」を作品130の終楽章として演奏することも増えてきました。ストラヴィンスキーは、この曲を、いつまでも古びることのない、まったく現代的な音楽だと讃えています。
「そうあらねばならぬ」── 作品135
最後に完成された四重奏曲が、第16番(作品135)です。五曲の中ではもっとも簡潔で、おだやかな澄明さをたたえています。
その終楽章には、ベートーヴェン自身の手で、奇妙な書き込みが残されています。緩やかな序奏に「そうでなければならぬか?」、それに続く速い主部に「そうあらねばならぬ!」。
Muss es sein?(そうでなければならぬか?)── Es muss sein!(そうあらねばならぬ!)
(ベートーヴェンが弦楽四重奏曲第16番・作品135の終楽章に記した言葉)
この問答は、もともとは半ば冗談から生まれたものだったと伝えられます。けれど最後の四重奏曲の結びに据えられたとき、それは運命を引き受ける者の、深い哲学的な問いと答えのように響きます。
生涯を闘い抜いた人が、最後にたどり着いた静かな肯定――そう聴くこともできるでしょう。
同時代には早すぎた ── 崩壊が様式になるとき
後期の弦楽四重奏曲は、同時代の人々をおおむね当惑させました。そして、その評価は長く揺れ続けます。
哲学者アドルノは、ベートーヴェンの晩年の作品について、調和や慣習が解体し、崩壊そのものが芸術の手段になっていると論じました。思想家エドワード・サイードも、晩年様式の困難さに注目しています。
実際、これらの後期作品は、中期の英雄的な傑作ほどには評価されてこなかった、と青木は指摘します。そのうえで、彼女はこう問い返すのです。
ほんとうにそうなのだろうか。青木は「私にはけっしてそのようには考えられない」と、後期四重奏曲の価値をはっきりと擁護しています。
そして今日では、その見方のほうが広く共有されています。形式の枠を破り、沈黙と不協和をも表現に変えたこれらの作品は、ワーグナーからバルトークにいたる後世の作曲家たちにとっての試金石となり、弦楽四重奏というジャンルそのものの可能性を、はるか先まで押し広げました。
早すぎたのは、聴く側だったのです。
結び
外の音を完全に失った人が、生涯の最後に、二百年かけてようやく聴き取られるような音楽を書き残しました。華やかな成功からも、聴衆の理解からも遠く離れた場所で、彼は自分にしか書けない音楽だけを、ひたすら書いていたのです。
後期弦楽四重奏曲は、その孤高の到達点にほかなりません。
「第九」の成り立ちは別稿で、聴覚との闘いそのものは「難聴とどう闘ったか」で、そして晩年へといたる生涯は前編・後編で、それぞれ辿っています。
参考文献
主要参考文献
- 『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ/平凡社(平凡社ライブラリー)/2018年(原本:平凡社新書、2009年)
書籍内引用
- ベートーヴェンが弦楽四重奏曲第15番(作品132)第3楽章に記した標題
- ベートーヴェンが弦楽四重奏曲第16番(作品135)終楽章に記した言葉
補足参照
- テオドール・W・アドルノ『ベートーヴェン ── 音楽の哲学』(晩年様式について)
- エドワード・W・サイード『晩年のスタイル』(晩年様式について)
- Beethoven-Haus Bonn(公式デジタルアーカイブ、後期弦楽四重奏曲の自筆譜について)
