音楽家から聴覚を奪う。運命の仕打ちとして、これほど残酷な取り合わせはありません。
けれどベートーヴェン(ベートーベン)の難聴は、ある日突然すべての音を奪ったわけではありませんでした。30年ちかくをかけて、ゆっくりと進行したのです。
その長い歳月、彼は医療に、道具に、そして自分自身の心に向き合い続けました。彼が難聴とどう闘ったのかを、当時の医療、補聴の道具、そして最新の研究まで辿っていきます。
始まり ── 異変は20代後半に
聴覚の異変が始まった時期を、本人は一定して語っていません。1801年6月、旧友の医師ヴェーゲラーと親友アメンダに宛てた手紙では「3年前から」、つまり1798年頃からとしています。
一方、翌1802年の「ハイリゲンシュタットの遺書」には「もう六年このかた」とあり、これに従えば1796年頃となります。いずれにせよ、ウィーンで成功への道が開けた20代後半、最初の影が差したことになります。
1801年の手紙が伝える症状は、具体的です。演奏や作曲にはまだほとんど障りがない。
けれど、絶え間ない耳鳴りのせいで人の言葉が聞き取れない。かといって大声を出されると、今度は耐えがたい。
劇場では、俳優の台詞を聞き取るためにオーケストラ・ボックスのそばまで行かねばならない――。かつては同業の誰よりもよい耳の持ち主だった、という自負が、その記述をいっそう痛切なものにしています。
当時の医療ができたこと、できなかったこと
ベートーヴェンは、手をこまねいていたわけではありません。1801年までの3年間だけで、少なくとも4人の医師にかかっています。
しかし当時の治療は、耳に扁桃油を注ぎ入れるといった処置がせいぜいで、あとはもっぱら、彼の持病だった胃腸疾患の改善に向けられました。医師も本人も、難聴の原因はその胃腸の病にあると考えていたのです。
耳の医学がまだ専門分野として確立していない時代でした。
1801年からは、ウィーンの名医ヨハン・アダム・シュミットが主治医となります。シュミットは、できるだけ聴覚をいたわるようにと助言し、療養を勧めました。
1802年、ベートーヴェンが半年をハイリゲンシュタットで過ごしたのは、この勧めによるものです。鉱泉で胃腸を治せば、耳もよくなるかもしれない――その望みが断たれたとき、彼は筆を執り、あの遺書を書くことになります。
隠す、という消耗戦
医療以上に彼をすり減らせたのは、秘密を守る闘いでした。聴覚の異常は、音楽家という職業の根幹を脅かします。
敵対する者に知られたら、何と言われるか。親しい友の目にすら、哀れみの色が浮かぶことには耐えられない。
剛毅で大胆な反面、繊細で傷つきやすかったこの人は、人の集まる場を避け、孤独に閉じこもっていきました。遺書には、その孤立の痛みが刻まれています。
誰かが私のそばに立って遠くの笛の音を聞いているのに、私には何も聞こえない、誰かが羊飼いの歌を聞いているのに、私にはやはり何も聞こえない——そんな出来事が、私を絶望のふちへ追いやった。
(「ハイリゲンシュタットの遺書」1802年、当サイト訳。全文は別稿に掲載)
注目したいのは、同じ遺書の中で彼が、自分の死後、主治医シュミットに病気の記録を書いて公表してほしい、と弟たちに頼んでいることです。世間の誤解を解きたい。
そして、自分でもつかめないこの病の正体を、いつか誰かに説明してほしい――その願いは、思いがけない形で、200年後に引き継がれることになります(後述)。
道具との闘い
聴力の衰えが進むにつれ、ベートーヴェンは道具に助けを求めるようになります。
1812年頃からは、メトロノームの発明者として知られる技師メルツェルが、彼のためにラッパ型の補聴器をいくつも作りました。金属の管で音を耳へ導く、当時としては最先端の道具です(現物はボンのベートーヴェン・ハウスに残っています)。
1818年にはロンドンのブロードウッド社から、音量の豊かな大型ピアノが贈られました。ピアノに棒を当て、それを口にくわえて振動を骨から伝わらせ、音を「感じた」という逸話も、身近にいた人々の回想として伝えられています。
それでも会話は困難になり、1818年頃からは、有名な「会話帳」が登場します。相手に質問や用件を書いてもらい、自分は口頭で答える、筆談のためのノートです。
現在も百数十冊が残されており、晩年のベートーヴェンの日常を伝える第一級の資料になっています。もっとも、書かれているのは相手の言葉だけで、彼自身の返答は声で発せられたため残っていません。
残された帳面は、いわば「半分だけの会話」です。それでも、来客の質問の並びから彼の答えを推し量る作業は、研究者にとって尽きない宝の山になりました(ただし、秘書だったシントラーが後年その一部に手を加えたことが分かっており、扱いには注意が要ります。この問題は、秘書シントラーによる人物像の歪曲を扱った別稿で詳しく取り上げています)。
会話帳には、こんな書き込みも残っています。最晩年、病床の彼のもとへ毎日スープを運んでくれた、近所の少年の文字です。
おなかはまだ痛みますか?
(ベートーヴェンの会話帳より、少年の書き込み。出典:青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー、第5巻終章)
偉大な作曲家の闘病の記録のすぐ隣に、こうした無邪気なやりとりが残っている。会話帳は、沈黙の中の暮らしが、それでも人とのつながりに支えられていたことを教えてくれます。
舞台からの退場
進行する難聴は、演奏家ベートーヴェンから、活動の場を一つずつ奪っていきました。
1813年から14年にかけて、「ウェリントンの勝利」の大成功で彼は時代の寵児になりますが、その舞台裏で、もはや自作の指揮すら満足にできなくなっていたと青木は記しています。1814年には、「大公」トリオの演奏会を最後に、公の場でピアノを弾くことはなくなったと伝えられます。
居合わせた音楽家シュポーアは、かつての名手の変わり果てた演奏を痛ましく書き残しました。1822年の「フィデリオ」の稽古では、指揮を続けることができず、途中で家へ帰されたという証言もあります。
そして1824年、「第九」の初演。聴衆に背を向けて立つ彼は、湧き起こる大喝采に気づかず、独唱者に袖を引かれて、ようやく客席を振り返りました。
後編で触れたこの場面は、彼の聴覚がもはや完全に失われていたことを、何より雄弁に物語っています。最晩年の病床でも、見舞客との込み入ったやりとりは、紙に書いてもらうほかありませんでした。
忘れてならないのは、舞台からの退場が、暮らしの問題でもあったことです。ウィーン時代の前半、彼の名声と収入を支えた柱は、当代一と謳われた即興演奏でした。
その柱が、難聴とともに崩れていったのです。1809年に三人の貴族が約束した年金(後編参照)と、途切れぬ出版依頼がなければ、晩年の創作生活は成り立たなかったでしょう。
難聴は、芸術の問題である前に、一人の職業人の生計を脅かす現実でした。
それでも、なぜ書けたのか
外の音を失いながら、ベートーヴェンは作曲をやめませんでした。それどころか、「第九」も、後期の弦楽四重奏曲も、ほぼ聞こえない歳月に書かれています。
不思議に思えますが、作曲という営みの核心は、耳ではなく、頭の中で音を鳴らす力にあります。少年時代から徹底的に訓練された彼の内的聴覚は、外の音を必要としないほどに鍛え上げられていました。
膨大なスケッチ帳が示すように、彼は頭の中の音を紙の上で何年も練り上げる人でした。沈黙は、その営みを止められなかったのです。
なお、難聴が後期様式の深まりを「生んだ」のかどうかは、研究者の間でも見方が分かれます。苦難を物語として美化しすぎないことも、この主題には必要な節度でしょう。
原因は、いまもわかっていない
では、彼の難聴の原因は何だったのでしょうか。本人は晩年、暑い日に上半身裸で風に当たったせいだ、転んで頭を打ったせいだ、とさまざまに語っており、結局、自分でも納得のいく答えをつかめなかったようです。
後世も、耳硬化症や内耳の病など多くの仮説を立ててきましたが、決め手はありませんでした。
2023年、国際研究チームが、現存する「ベートーヴェンの遺髪」のゲノム解析を発表しました。研究の出発点に置かれたのは、ほかならぬハイリゲンシュタットの遺書――死後に自分の病を世に説明してほしい、というあの願いです。
解析の結果、8房の毛髪のうち本人のものと確認できたのは5房。肝臓病の強い遺伝的素因とB型肝炎ウイルスへの感染が見つかり、晩年の死因の解明は大きく前進しました。
しかし、難聴と胃腸疾患については、原因を特定できませんでした。さらにこの研究は、難聴・死因の「鉛中毒説」の有力な根拠とされてきた毛髪が、実際には別人(女性)のものだったことも明らかにし、通説を大きく揺るがせています。
一方で2024年には、本人と確認された毛髪から高濃度の鉛を検出したという別の報告も出ており、鉛への曝露が諸症状に影響した可能性は、いまも検討が続いています(死因をめぐる議論は、別稿で詳しく検証しています)。
200年を経て、最新の科学をもってしても、彼の耳に何が起きたのかは、まだ分かっていません。
結び
ベートーヴェンの難聴との闘いは、奇跡の物語ではありません。効かない治療に通い、秘密を抱えて消耗し、道具に頼り、舞台を一つずつ手放していく――その積み重ねでした。
それでも彼は、頭の中に残された音の世界で書き続けました。沈黙に屈しなかったのではなく、沈黙の中で生きる方法を、少しずつ作り上げていったのです。
その出発点となった「ハイリゲンシュタットの遺書」は別稿で全文を訳して紹介し、絶望から第九までの道のりは前編・後編で、それぞれ辿っています。
参考文献
主要参考文献
- 『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ/平凡社(平凡社ライブラリー)/2018年(原本:平凡社新書、2009年)
書籍内引用
- ベートーヴェン「ハイリゲンシュタットの遺書」(1802年。当サイト訳)
- ベートーヴェンの会話帳(少年の書き込み)
補足参照
- Begg, T. J. A. ほか「Genomic analyses of hair from Ludwig van Beethoven」Current Biology(2023年)
- 本人毛髪からの鉛検出に関する報告(Rifaiほか、2024年)
- ベートーヴェンの手紙(ヴェーゲラー宛・アメンダ宛、1801年)
- Beethoven-Haus Bonn(公式デジタルアーカイブ、補聴器・会話帳について)
