灰色のマントをまとった見知らぬ男が、レクイエム(死者のためのミサ曲)の作曲を依頼しにくる。病み衰えたモーツァルトは、その男をあの世からの使者と思い込み、自分自身のための鎮魂歌を書いているのだと感じながら、曲を完成できぬまま世を去る――。
映画『アマデウス』の臨終の場面でも知られる、この有名な物語。この「レクイエム」がなぜ未完に終わったのか、その真相を検証します。
通説 ── 死を予感した男の鎮魂歌
まず、長く語られてきた通説です。1791年の夏、正体不明の使者がモーツァルトのもとを訪れ、高額の報酬でレクイエムの作曲を依頼します。
病気がちで借金も抱えていたモーツァルトは、しだいにこの仕事に取り憑かれ、灰色の男は死の世界からの使者であり、自分はほかならぬ自分のためにこの曲を書いているのだ、と思い込むようになった――。
この物語が広まったのには、出所があります。モーツァルトの死後、未亡人コンスタンツェと再婚したニッセンが著したモーツァルト伝などが、この伝説を伝えました。
さらに、灰色の使者に催促されて自分のためのレクイエムを書いている、と死の予感を綴った手紙も知られています。夭折した天才にふさわしい逸話として、長く愛されてきたのです。
依頼主は誰だったか ── 灰色の使者の正体
しかし、神秘的な出来事など、何も起きてはいませんでした。1964年、この匿名の依頼主の正体が突き止められます。
フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵という、地方の領主でした。
ヴァルゼックは、ちょっと変わった趣味の持ち主でした。当時の有名作曲家に匿名で曲を書かせ、それを自分で写譜したうえで、自作として発表していたのです。
1791年2月に若くして亡くなった妻を追悼するため、彼はモーツァルトにレクイエムを注文しました。「灰色の使者」とは、この伯爵の使いとして遣わされた、知人のライトゲープという人物にすぎなかったのです。
依頼主が名を伏せていたこと、そして自作として発表するという伯爵の意図が、あの「正体不明の使者」という謎を生んだのでした。借金の無心に応えてくれた友人プフベルクが、ヴァルゼック伯爵の屋敷に寄宿していたことから、この縁が生まれた可能性も指摘されています。
どこまでが本物か ── 8小節で途絶えたラクリモサ
では、私たちが耳にする「レクイエム」は、どこまでがモーツァルト自身の手によるものなのでしょうか。
1791年12月5日、モーツァルトは病床で世を去りました。その時点で、最後まで完全に書き上げられていたのは、冒頭の「イントロイトゥス(入祭唱)」だけでした。
続く「キリエ」、「セクエンツィア(続唱)」、「オッフェルトリウム(奉献唱)」は、歌の声部と低音、それに主要な楽器の音型までが記されているにとどまります。とりわけ知られているのが、「セクエンツィア」の中の「ラクリモサ(涙の日)」です。
この楽章は、わずか8小節を書いたところで、ぷつりと筆が途絶えています。それが、モーツァルトが書き残した最後の音符でした。
そして「サンクトゥス」から先は、モーツァルト自身の手では、まったく書かれていなかったのです。
誰が完成させたのか ── ジュスマイヤーの仕事
未完のままでは、報酬の残金も入らず、依頼主に渡すこともできません。コンスタンツェは、夫が完成させたという体裁を整えて、何としても作品を仕上げる必要がありました。
最初に補筆を頼まれたのは、弟子のヨーゼフ・アイブラー(のちにサリエリの後任として宮廷楽長を務める人物)でしたが、彼は途中まで手を入れただけで、仕事を降りてしまいます。代わって完成にこぎつけたのが、モーツァルトの助手をしていた弟子、フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤーでした。
ジュスマイヤーは、素描の残された楽章をオーケストラ用に仕上げ、「サンクトゥス」「ベネディクトゥス」「アニュス・デイ」を自ら作曲し、最後の「コンムニオ(聖体拝領唱)」には、モーツァルトが書いた冒頭の音楽を再び用いました。こうして完成した総譜は、依頼主ヴァルゼックに引き渡され、コンスタンツェは残りの報酬を受け取ります。
ヴァルゼックは予定どおりこれを自作として演奏しましたが、写譜を手元に残していたコンスタンツェがモーツァルトの作品として出版したため、今日まで「モーツァルトのレクイエム」として伝わることになりました。なお、ジュスマイヤーがどこまでモーツァルトの構想(失われた素描や口頭の指示)に基づいたのかは、いまも議論が続いています。
「自分のための鎮魂歌」は本当か
最後に、物語の核心――モーツァルトは本当に、自分の死を予感しながらこの曲を書いていたのか、という点です。
確かに、死へと向かう病床にあってなお、彼がレクイエムの作曲を続けていたのは事実でした。義妹ゾフィーは、モーツァルトが最期までジュスマイヤーに作曲の指示を与え、臨終の際には口でティンパニの音を表そうとするかのようだった、と書き残しています。
『アマデウス』で、ライバルが死の床のモーツァルトにレクイエムを口述筆記させる場面は、この証言をもとにした脚色です(むろん、それをサリエリの仕業とするのは創作です)。
けれども、「自分のための鎮魂歌」「毒殺の予感」といった、いかにも運命的な色づけは、後世の脚色によるところが大きいと考えられます。ロマン主義の時代が悲劇の天才を求めたこと、そして別稿で検証したサリエリ毒殺説が重なって、物語は神秘の度合いを増していきました。
死の予感を綴ったとされる手紙も、その真贋には疑いが持たれています。8小節で途絶えた「ラクリモサ」が彼の絶筆であることは紛れもない事実ですが、それを「死の予言」と結びつけるのは、あくまで後からの解釈なのです。
検証のまとめ
整理します。「レクイエム」の依頼は、自作と偽りたい貴族からの、ごく世俗的な匿名の注文でした。
それがモーツァルトの死によって未完に終わり、弟子ジュスマイヤーらの手で、素描と補作によって完成されたのです。「灰色の使者」「自分のための鎮魂歌」「毒殺」といった神秘的な装いの多くは、ロマン主義的な伝説でした。
とはいえ、絶筆となった「ラクリモサ」の中断が放つ痛切さは本物で、それゆえこの曲は、未完であることそのものによって、いっそう人を惹きつけます。なお現代では、ジュスマイヤー版の弱点を補おうとする試みも重ねられ、1971年のバイヤー版をはじめ、複数の補筆完成版が用いられています。
ベートーヴェンを送った「レクイエム」
この未完の傑作には、当サイトにとって忘れがたい後日談があります。モーツァルト自身が完成できなかったこの「レクイエム」が、その死から36年後、ベートーヴェンを悼む追悼ミサで歌われたと伝えられているのです。
ウィーンに生きた二人の巨匠が、一つの鎮魂歌を介して結ばれた、と言ってよいでしょう。
ちなみにベートーヴェンもまた、晩年に壮大な宗教曲「ミサ・ソレムニス」を書き上げています。モーツァルトの「レクイエム」とベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」は、ウィーン古典派が遺した、二つの大きな宗教音楽の頂なのです。
結び ── 未完が放つ光
完成されなかったがゆえに、かえって永遠の輝きを放つ作品があります。モーツァルトの「レクイエム」は、その代表でしょう。
神秘の伝説をはがした先に残るのは、最後の一音まで音楽に向き合い、志半ばで筆を置かざるをえなかった、一人の作曲家の姿です。
モーツァルトをめぐるもう一つの俗説――毒殺説については「サリエリはモーツァルトを毒殺したのか」で、「貧乏で共同墓地」説については別稿で、それぞれ検証しています。
参考文献
主要参考文献
- 『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ/平凡社(平凡社ライブラリー)/2018年(原本:平凡社新書、2009年。ベートーヴェンとモーツァルトの「レクイエム」の接点、および『ミサ・ソレムニス』について)
補足参照
- 「レクイエム(モーツァルト)」日本語版Wikipedia(依頼主ヴァルゼック伯爵の解明、補筆完成の経緯、未完の範囲について)
- フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤーによる補筆完成版、およびフランツ・バイヤーらによる改訂版に関する各種資料
- ゲオルク・ニコラウス・ニッセン『モーツァルト伝』(「灰色の使者」伝説の出所の一つ)
