凡庸な宮廷作曲家が、神に愛された天才モーツァルトへの嫉妬に狂い、ついには彼を死に追いやる――映画『アマデウス』が描いたアントニオ・サリエリの姿は、強烈な印象を残しました。では、サリエリは本当にモーツァルトを毒殺したのでしょうか。
そして、当サイトにとって見過ごせない事実が一つあります。このサリエリこそ、ベートーヴェンの作曲の師だったのです。
この有名な「毒殺説」を、史実に照らして検証します。
通説 ──『アマデウス』が描いたサリエリ
通説の発信源は、ピーター・シェーファーの戯曲『アマデウス』(1979年初演)と、それをもとにしたミロシュ・フォアマン監督の映画(1984年)です。戯曲では、サリエリが砒素でモーツァルトを毒殺したことになっています。
映画では、毒殺ではなく、亡き父の亡霊を装ってレクイエムを注文し、モーツァルトを精神的・肉体的に追い詰めていく筋立てに変えられました。いずれにせよ、嫉妬に駆られた凡才が天才を死に至らしめる、という物語が、世界中に広まったのです。
これはすぐれた劇作です。映画版は1985年のアカデミー賞で作品賞をはじめ多くの賞に輝き、世界的な成功を収めました。
その影響力はあまりに大きく、「サリエリ」という名は、天才に嫉妬する凡才の代名詞のように使われるまでになります。けれども、それは歴史ではありません。
噂はいつ生まれたか
毒殺の噂そのものは、創作ではなく、実際に存在しました。モーツァルトが1791年に35歳で世を去った直後から、「本当は毒殺されたのではないか」という噂がヨーロッパ中に広がり、その犯人としてサリエリの名が取り沙汰されたのです。
根拠ははっきりしません。
1820年代のウィーンでは、サリエリがモーツァルトから盗作した、あるいは毒殺しようとした、と非難するスキャンダルまで起こりました。むろん、何ひとつ立証されてはいません。
背景にあったのは、音楽界の派閥争いだったといわれます。ロッシーニを担ぐイタリア派と、ドイツ音楽を旗印にするドイツ派が対立する中で、長年ウィーンの宮廷楽長の座を占めてきたイタリア人サリエリが、格好の標的にされたのです。
生前のモーツァルト自身も、自分が高い地位に就けないのはサリエリが邪魔をするせいだ、とこぼしていたと伝えられます。当時この噂がいかに生々しかったかは、難聴のベートーヴェンの会話帳にも、1824年の初め、見舞客がこの話題を書きとめた跡が残っていることからもうかがえます。
「告白」の真相
『アマデウス』で印象的なのは、精神を病んだサリエリが、自らの罪を告白する場面です。これも、当時のスキャンダラスな風聞をもとにした脚色でした。
実際のサリエリは、晩年に入院していましたが、それは精神病院ではなく、痛風と、視力の衰えから負った怪我の治療のためでした。身に覚えのない噂に心を痛めていたのは事実のようで、弟子のイグナーツ・モシェレスに、わざわざ自分の無実を訴えています。
ところが、これがかえって逆効果でした。あまりに気にする様子を見たモシェレスは、疑念を募らせ、日記に「彼はモーツァルトを毒殺したにちがいない」と書きつけてしまうのです。
それ以前、作曲家ロッシーニから面と向かって「本当に毒殺したのか」と尋ねられたときには、サリエリは毅然と否定する余裕がありました。病苦と怪我で気弱になっていたとはいえ、彼が罪を認めた確かな記録はありません。
検証① モーツァルトの死因
そもそも、モーツァルトは毒殺されたのでしょうか。彼は死の直前、高熱と全身の腫れに苦しんだという記録が残っています。
死因については古くから議論があり、確定はしていませんが、現代の医学的な見地からは、リウマチ熱や腎臓の病など、病気によるものだった可能性が高いとされています。毒物による死を示す証拠はありません。
「貧しさのうちに死に、共同墓地に葬られた」という悲劇的なイメージも、誤解を含んでいます。当時のウィーンでは、ごく一般的な市民の埋葬の形式が共同墓地であり、特別に不名誉なことではなかったのです。
検証② サリエリという人物
では、犯人とされたサリエリは、どんな人物だったのでしょうか。彼はウィーンの宮廷楽長を務め、オペラ作曲界の第一人者として大きな成功を収めた音楽家でした。
経済的に恵まれていたためか慈善にも熱心で、弟子からは一切謝礼を取らず、才能のある者や生活に困る者を援助したと伝えられます。
その教え子の顔ぶれは、驚くほど豪華です。ベートーヴェン、シューベルト、リスト、チェルニー、フンメル、そして先のモシェレス。
さらには、モーツァルト自身の息子までもが、サリエリに学んでいます。彼はモーツァルトと共作したこともあり、その作品を演奏する機会を提供するなど、良好な同僚関係を築いた形跡も確認できます。
要するに二人の関係は、フィクションが描くような殺意に満ちたものではなく、互いを認め合う、競争相手どうしのものでした。長年あらぬ汚名に苦しめられたサリエリは、1997年になってようやく、歴史家や音楽学者たちの検証によって、正式にその無実が認められました。
ベートーヴェンの先生だった男
そして、ここからが当サイトの本題につながります。ベートーヴェンが修業時代に教えを受けた師の中で、もっとも長く、もっとも良い関係が続いたのが、ほかならぬサリエリでした。
サリエリは、イタリア語による声楽曲の書き方、歌詞を旋律にのせる繊細な手法、劇的なアリアの表現などを、ベートーヴェンに授けます。1793年から1802年にかけて、ベートーヴェンが課題として書いたイタリア語の多声歌曲が、いまも草稿で残っています。
感謝を込めて、ベートーヴェンは三つのヴァイオリン・ソナタ(作品12)をサリエリに献呈しました。当時、一流の作曲家と認められるにはイタリア・オペラでの成功が欠かせず、サリエリの教えは、その登竜門を通るための実地の指南でもありました。
声楽を不得手としていたとされるベートーヴェンが、唯一のオペラ「フィデリオ」や、声と管弦楽を結びつけた「第九」の合唱へと進んでいけた背景には、この時期の地道な研鑽があったのです。
そのサリエリは、弟子のベートーヴェンをどう見ていたか。青木やよひは、巻末の注でこう記しています。
サリエリは、毒殺説の噂のせいで印象がよくないけれども、実際には貧しい音楽家を援助する志ある人物であり、
ベートーヴェンを「奇跡的作曲家」と絶賛していた。
(出典:青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー、第5巻 巻末注)
『アマデウス』が嫉妬深い毒殺者として描いた男は、現実には、次の時代を担う若き巨匠たちを、惜しみなく育てた教師だったのです。
検証のまとめ
整理します。サリエリがモーツァルトを毒殺したという説を、今日の歴史家は誰も支持していません。
モーツァルトは病で世を去ったとみるのが妥当であり、毒殺の証拠は存在しません。噂は、出どころの不確かなゴシップが、派閥争いの中で増幅され、やがてプーシキンの戯曲『モーツァルトとサリエリ』、リムスキー=コルサコフのオペラ、そして『アマデウス』という強力なフィクションを通じて、定着していったものです。
サリエリは、二百年にわたって濡れ衣を着せられた、いわば俗説の犠牲者でした。
なお、プーシキンは、嫉妬や創造の源泉といった主題を描くためにこの題材を選んだのであって、史実を伝えようとしたわけではない、と言われています。『アマデウス』もまた、見事な芸術作品ですが、歴史の記録ではありません。
結び ── 物語と、その向こうの人物
魅力的な物語は、ときに一人の人間の実像を覆い隠します。サリエリの場合、その物語があまりに強烈だったために、有能で寛大な教師という素顔は、長く忘れられてきました。
私たちがベートーヴェンの豊かな声楽作品を耳にできるのも、その背後に、サリエリの教えがあったからかもしれません。
なお、ベートーヴェン自身もまた、最初の伝記作者によって人物像を大きく歪められた一人でした。その経緯は、秘書シントラーによる人物像の歪曲を扱った別稿で取り上げています。
参考文献
主要参考文献
- 『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ/平凡社(平凡社ライブラリー)/2018年(原本:平凡社新書、2009年。サリエリがベートーヴェンの師であったこと、およびサリエリの人物評について)
書籍内引用
- サリエリによるベートーヴェン評(青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』巻末注)
補足参照
- 「アントニオ・サリエリ」日本語版Wikipedia(毒殺説の経緯、サリエリの実像、晩年と弟子たちについて)
- アレクサンドル・プーシキン『モーツァルトとサリエリ』(1830年。毒殺伝説を題材とした戯曲)
- ピーター・シェーファー『アマデウス』(1979年初演の戯曲、および1984年の映画版)
