「ハイリゲンシュタットの遺書」で死を見つめたベートーヴェンは、そこから立ち直り、耳が聞こえないまま「英雄」「運命」「田園」、そして「第九」を世に送り出していきます。絶望を越えた先にあった、実り豊かな後半生。
この後編では、傑作が次々と生まれた時期から、波乱の晩年、そして最期の日までを追います。
目次
ウィーン、1824年5月7日
宮廷劇場は満席でした。舞台では、9年ぶりの新作交響曲が鳴り終わったところです。
客席は総立ちになり、帽子とハンカチが振られ、拍手は鳴りやみません。
けれど、指揮台で聴衆に背を向けて立っていた作曲家には、その歓呼が届いていませんでした。曲が終わってもなお総譜に目を落としている彼の袖を、独唱者のカロリーネ・ウンガーがそっと引き、客席のほうへ振り向かせます。
そこでベートーヴェン(ベートーベン)は初めて、自分が引き起こした熱狂を「目で」知りました。「交響曲第9番」の初演の、語り継がれる一場面です。
耳の聞こえない作曲家が、すべての人の歓喜を歌う音楽を書き、満場の喝采を受ける。この逆説に至るまでの後半生を、傑作の森から最期の日まで辿っていきます。
「新しい道」── 絶望が創造へ転じるとき
ハイリゲンシュタットの遺書を書いた1802年は、見方を変えれば、創作欲にあふれた年でもありました。この年だけで「交響曲第2番」や三つの「ピアノ・ソナタ」作品31、そして中期の特徴を鮮やかに打ち出した二つの「ピアノ変奏曲」作品34・35が生まれています。
難聴によって他者との交わりが閉ざされていく苦痛と、創造者としての自覚の高まり。数年来彼を引き裂いてきたこの矛盾が、遺書を境に一挙に意識化され、乗り越えられた――青木はそう読み解きます。
友人の一人クルムフォルツに、ベートーヴェンは「これまでの作品には満足できない。これからは新しい道を進む」と語ったと伝えられます。失われたのは快癒への希望であり、その代わりに、自分の天分への確信が残りました。
沈黙へ向かう歳月は、同時に、彼の音楽がもっとも豊かに実る歳月の始まりでもあったのです。
「エロイカ」と消された献辞
その「新しい道」を世に告げたのが、「交響曲第3番」、のちに「英雄(エロイカ)」と呼ばれる作品でした。1803年から翌年にかけて、ウィーン郊外オーバーデーブリングの農家で書き上げられたこの曲は、従来の交響曲の枠を破る規模と手法を持っていました。
完成した手写本の表紙には、イタリア語で大きく「シンフォニア・グランデ(大交響曲)」、その下に「ボナパルトにちなむ」と記されていました。当時のベートーヴェンは、革命後の混乱を収めたナポレオンを、古代ローマの護民官になぞらえて尊敬していたのです。
革命の精神を人類にもたらす英雄――それが彼のナポレオン像でした。
ところが、ナポレオンが皇帝に即位するという報せが届きます。弟子のリースが伝えるところでは、それを聞いたベートーヴェンは「あの男もただの俗物にすぎなかったのか」と激昂し、表紙の「ボナパルトにちなむ」の文字を削り取り、なお収まらずにそのページを引きちぎって床に投げ捨てたといいます。
その場には伯爵モーリッツ・リヒノフスキーも居合わせていました。やがて怒りが鎮まると、彼はこの曲を、革命の大義に殉じた人々の追憶と、英雄的な一時代の記念碑として、「シンフォニア・エロイカ」と名づけ直します。
理想を体現すべき人間が王座に就いた――その幻滅の先で、人類を美によって善へ導く使命を、自らが引き受けようとしたのかもしれません。
傑作の森
ここから十年あまり、ベートーヴェンの創造力は奔流のように作品を生み出します。後世、ロマン・ロランが「傑作の森」と呼んだ中期です。
運命の動機で知られる「交響曲第5番」、自然を描いた「第6番(田園)」、ピアノ・ソナタ「熱情」、「皇帝」と呼ばれるピアノ協奏曲第5番、「ヴァイオリン協奏曲」、「コリオラン」序曲、ルドルフ大公に捧げられた「大公トリオ」、ラズモフスキー伯爵に献じた三つの弦楽四重奏曲――いずれも、この時期に集中しています。
時代そのものは、けっして穏やかではありませんでした。ナポレオン戦争の砲火はウィーンにも及び、唯一のオペラ「フィデリオ」が初めて上演された1805年、街はフランス軍の占領下にありました。
客席の多くはフランス兵で、初演は不評に終わります。1809年には再びウィーンが占領され、砲撃の夜、ベートーヴェンが弱った耳を守ろうと枕で頭を覆っていたという話も伝わります。
圧政に抗い、自由を求める人間の声――「フィデリオ」が描いたその主題は、彼の音楽の核にあるものでした。
そうした激動の中でも、生活の基盤は整いました。1809年、彼を引きとめたいウィーンの三人の貴族、ルドルフ大公とロプコヴィッツ侯、キンスキー侯が共同で年金を約束し、ベートーヴェンは特定の宮廷に仕えない自由な作曲家として、ウィーンにとどまります。
神に捧げるためでも王侯を賛美するためでもない、市民の心に訴える音楽――岡田暁生の言葉を借りれば、古典派とは「市民による、市民のための」音楽の誕生でした。ベートーヴェンは、その理念をもっとも力強く体現する存在になっていきます。
ただ、その栄光の裏で、聴覚は確実に失われ続けていました。人と筆談するための「会話帳」を使い始めるのも、この頃からです。
甥カールという重荷
1815年11月、弟カスパール・カールが世を去り、ベートーヴェンの後半生に重い影が差します。残された9歳の甥カールの養育をめぐって、彼は子の母であり弟の未亡人であるヨハンナと、長い裁判を争うことになったのです。
ベートーヴェンは、母から子を引き離してでも自分が後見人になろうとしました。この姿は周囲に、弱い立場の女性を追い詰める酷薄な男という印象を与え、シュテファン・ブロイニングのような古い友人まで、一時は彼のもとを離れてしまいます。
後年の研究で、ベートーヴェンの申し立てにも事実の裏づけがあったことが分かっていますが、当時の彼は、誰よりも甥を愛するがゆえに、孤立を深めていきました。
その執着は、悲劇的な形で報われます。1826年7月30日、青年に成長していたカールが、ピストル自殺をはかったのです。
未遂に終わったものの、この事件がベートーヴェンに与えた打撃は、周囲が驚くほど大きなものでした。肉親の絆に振り回された歳月は、最晩年まで彼を離しませんでした。
後期様式 ── 孤高の高みへ
世間との関わりが細っていく一方で、ベートーヴェンの音楽は、誰も足を踏み入れたことのない領域へ分け入っていきます。後期様式と呼ばれる、晩年の作品群です。
壮大な宗教音楽「ミサ・ソレムニス」(ニ長調ミサ・作品123)は、後援者ルドルフ大公の大司教就任を祝うために起筆され、完成まで数年を要する大作になりました。一つのワルツの主題を汲み尽くすように展開した「ディアベリのワルツの主題による三十三の変奏曲」、内省の深まる最後の三つのピアノ・ソナタ(作品109・110・111)も、この時期の到達点です。
そして最後の高みが、晩年の弦楽四重奏曲群でした。作品127から132、135、そして長大な「大フーガ」(作品133)。
最初は作品130の終楽章として書かれたこの巨大なフーガは、あまりに難解と受け取られ、のちに独立した一曲として切り離されたほどです。同時代の聴衆の多くを当惑させたこれらの作品は、今日では西洋音楽の最も深い高みのひとつと評されています。
華やかな成功からも、聴衆の理解からも遠ざかった場所で、彼は自分にしか書けない音楽だけを書いていました。
第九 ── すべての人へ
その晩年に、ベートーヴェンは若い頃からの宿願に立ち返ります。シラーの詩「歓喜に寄す」に曲をつけることです。
すべての人間は兄弟となる――その理想をうたう詩への思いは、1790年代のボン時代にまでさかのぼり、長い歳月をかけて熟成された末に、交響曲の終楽章に合唱を据えるという前例のない形で結実しました。器楽だけの交響曲に人間の声を持ち込み、観念を越えて「言葉」で理想を語らせる。
それは、音楽が果たしうる役割そのものを押し広げる試みでした。「交響曲第9番」、1824年の初演は、本稿の冒頭で触れた通りです。
そしてこの音楽を、作曲した本人だけが、ついに自分の耳で聴くことはできませんでした。
岡田暁生は、この終楽章を、啓蒙の時代が掲げた「すべての人々に開かれた音楽」という理念の究極の到達点と位置づけています。後年「一〇〇〇人の第九」と呼ばれる催しが示すように、ここでは万人が参加できる音楽の祝典が、本当に実現しました。
モーツァルトの優美な音楽が、その精巧さゆえに大勢の素人の参加を許さないのに対し、ベートーヴェンの音楽には、群衆の歌声に耐える太い力がある。岡田は、貴族の典雅なメヌエットを突撃するスケルツォが粉砕していくさまを引きながら、彼の音楽をこうとらえています。
放蕩貴族ドン・ジョヴァンニに怨嗟の眼差しを向ける農民マゼットの憤怒から生まれてきた音楽、それがベートーヴェンだとすらいえるかもしれない。
(出典:岡田暁生『西洋音楽史 ──「クラシック」の黄昏』中公新書、p.123)
その力には、革命歌に通じる集団的な高揚への拒絶反応を示す人々もいました。だからこそ第九は、二百年を経てなお論じられ続ける作品なのでしょう。
最期
1826年の秋、カールの事件のあと、ベートーヴェンは弟ヨーハンの田舎の屋敷で甥とともに過ごしました。しかし弟との間にも不穏な空気が生まれ、12月1日、彼は急きょウィーンへ戻ります。
その帰路で体調を崩し、肺炎を起こすと、やがて肝硬変の症状が現れました。なお、彼の死因については鉛中毒説をはじめ諸説があり、近年も議論が続いています。
病床には、かつての仲間たちが訪れました。3月8日から四度にわたって見舞ったフンメル、励ましの言葉を残した若き音楽家たち。
3月24日には終油の秘跡を受けます。臨終に際してベートーヴェンが口にしたと伝えられるのは、芝居の幕切れになぞらえた、彼らしい達観のひとことでした。
諸君、芝居は終わった。
(臨終のベートーヴェンの言葉として伝わる。出典:青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー、p.262)
1827年3月26日、ウィーンの空は朝から荒れていました。夕刻、激しい雷鳴がとどろき、雪まじりの旋風が街を吹きあれます。
そのとき臨終の床にいた若い作曲家ヒュッテンブレンナーは、後年こう書き残しました。瀕死のベートーヴェンが目をかっと見開き、稲妻に照らされた室内で、しばらくのあいだ右手の拳を高く掲げた――。
あまりに劇的なこの情景は、彼の回想を出どころとしながら、長く語り継がれてきました。やがてその手がベッドに落ちたとき、両眼も閉ざされます。
56歳と3ヵ月の生涯でした。
葬儀と、その後
死から二日おいた3月29日の葬儀は、誰も想像できなかったほどの盛儀となりました。宮廷からの供え物は一切なく、すべては民間の人々の寄進です。
そして何より驚くべきは、二万とも三万とも言われるウィーン市民が、どこからともなく駆けつけたことでした。騎馬隊が交通整理にあたっても、葬列はわずか四ブロック先の教会に着くのに一時間半を要したといいます。
痛風の老友ズメスカルは、かつてオーストリアの皇帝でさえこれほどの葬礼は受けなかった、と書き送っています。
棺の横に松明を掲げて従った音楽家の中に、フランツ・シューベルトがいました。彼は墓地まで赴き、名優アンシュッツが朗読する詩人グリルパルツァーの追悼文に耳を傾けます。
埋葬のあと、友人たちと立ち寄った居酒屋で、シューベルトは「我らが不滅のベートーヴェンをしのんで」と杯を上げ、もう一度注いで、「我ら三人のうち、最初にベートーヴェンに続く者のために」と乾杯したと伝えられます。その彼自身が世を去るのは、わずか一年半後のことでした。
遺品の整理は、病をおして奔走したブロイニングらの手で進められました。仕事机に細工された秘密の引き出しからは、銀行株券とともに、二点の女性の細密画と一通の手紙が見つかります。
「不滅の恋人」へ宛てられたその手紙は、遺書と並んで、ベートーヴェン最大の謎を後世に残すことになりました。
結び ── 沈黙の彼方へ
ボンに生まれた少年は、難聴という最大の試練を負いながら、音楽そのものを描く対象から、人間の意志と理想を語る言葉へと変えました。耳の聞こえない作曲家が書いた「すべての人の歓喜」が、いまも世界中で歌われています。
ハイリゲンシュタットの絶望から第九の歓喜まで――ベートーヴェンの生涯は、沈黙の中でこそ最も雄弁になりうることを示しています。机の奥に残された「不滅の恋人」への手紙が誰に宛てられたものだったのか、そして「第九」がいかにして生まれたのかは、それぞれ別稿で掘り下げています。
参考文献
主要参考文献
- 『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ/平凡社(平凡社ライブラリー)/2018年(原本:平凡社新書、2009年)
- 『西洋音楽史 ──「クラシック」の黄昏』岡田暁生/中央公論新社(中公新書)/2005年
書籍内引用
- ベートーヴェンの臨終の言葉(「芝居は終わった」として伝わる)
- ベートーヴェン「交響曲第9番」(作品125、1824年初演)の関連事項
補足参照
- Beethoven-Haus Bonn(公式デジタルアーカイブ)
- Encyclopædia Britannica「Ludwig van Beethoven」
