楽聖と呼ばれるベートーヴェン(「ベートーベン」とも表記されます)は、音楽家にとって命ともいえる聴覚を、人生の絶頂で失いはじめました。ボンに生まれた一人の少年が、どのようにウィーンの頂点へ駆け上がり、そして「ハイリゲンシュタットの遺書」を書くほどの絶望へと沈んでいったのか。
この前編では、その前半生を、誕生から遺書まで順に見ていきます。
目次
ハイリゲンシュタット、1802年秋
1802年の秋、ウィーン郊外の村ハイリゲンシュタットで、31歳の作曲家が二人の弟に宛てて一通の手紙を書きました。私を敵意ある偏屈な人間嫌いと見なしている人々よ、あなたがたはどれほど私を誤解していることか――。
そう始まる文面は、悪化する難聴への絶望を切々とつづり、一度は死の誘惑にまで触れていきます。
手紙が投函されることはありませんでした。本人の手元に残されたまま、四半世紀後、作曲家の死の直後に遺品の中から発見されます。
後世「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれることになる文書です。
音楽家が、耳を失う。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年12月16日頃 – 1827年3月26日)の前半生は、ボンの少年が音楽の都ウィーンで頂点に手をかけるまでの上昇の物語であると同時に、その同じ歳月のうちに、音楽家としての土台が静かに崩れていく物語でもありました。
この記事では、光と影が分かちがたく重なった前半生を、ボンの少年時代から順に辿っていきます。
ボンの少年 ── 三代続く宮廷音楽家の家
ベートーヴェンが生まれたのは1770年12月、ケルン選帝侯の宮廷都市ボンです。誕生日を直接示す記録はなく、12月17日付の洗礼記録から、誕生は16日頃と推定されています。
ベートーヴェン家は祖父の代からの宮廷音楽家でした。フランドルから移り住んだ祖父ルートヴィヒ(1712 – 1773)は、歌手から身を起こして宮廷楽長にまで昇りつめた人物です。
孫は終生この祖父を敬愛し、後年ボンから肖像画を取り寄せて身辺に飾っていたと伝えられます。父ヨーハン(1739/40頃 – 1792)も宮廷のテノール歌手で、声楽のほかピアノやヴァイオリンも修めた音楽家でしたが、酒癖がしだいに一家の影となっていきました。
母マリア・マグダレーナ(1746 – 1787)については、「もと召使いだったため、楽長である祖父が結婚に反対した」という説が長く伝記に書かれてきました。しかし後年、シーダーマイアらの研究によって、彼女の父はトリーア選帝侯の夏の宮殿で料理長を務めた人物で、親戚には企業家や高位の聖職者もいたことが証明され、この「身分違い」説は否定されています。
広く流布した物語が史料の検証で書き換えられる――ベートーヴェン伝には、こうした例が少なくありません。1767年に所帯を持った夫妻はボンガッセの質素な住まいで暮らし、そこにルートヴィヒが生まれました。
「神童」の看板と、年齢の謎
幼いルートヴィヒの才能に最初に目をつけたのは父でした。モーツァルト父子の成功を意識したヨーハンは、息子を「神童」として売り出そうと、1778年3月、ケルンで演奏会を開きます。
残された広告には「六歳の小さな息子」とありますが、このとき本人は7歳と3ヵ月。父による年齢の操作でした。
演奏会そのものは成功しなかったと伝えられます。
この小さなごまかしは、思いがけず長い影を引きました。1782年に出版された最初の作品「ドレスラーの行進曲による九つの変奏曲」の楽譜には「十歳の若き好楽家」と添えられ(実際は11歳以上)、翌1783年の音楽誌では師ネーフェが「十一歳の少年ながら」と弟子を紹介し(実際は12歳3ヵ月)、同年秋に出版された「選帝侯ソナタ」にも「十一歳」と印刷されています(実際は13歳目前)。
幼少期から若い年齢をくり返し刷り込まれたベートーヴェンは、40歳近くになっても自分の年齢を誤認し続け、ボンから取り寄せた洗礼証明書の「1770年」をすぐには信じられなかった、と青木は記しています。
ケルンでの失敗を機に、父は自分の手で教えることを諦め、息子の教育を宮廷の同僚や近隣の音楽家たちに委ねました。亡き楽長の孫を、彼らは温かく迎えたようです。
少年はピアノに加えて弦楽器やホルンまで習得し、9歳の頃には父の期待を上回り、人に教えられるほどの腕になっていたといいます。
ネーフェとの出会い、啓蒙都市ボン
転機は1781年に訪れます。宮廷オルガン奏者としてボンに着任したクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェとの出会いです。
演奏の技倆はすでに身につけていたものの、彼が本当にやりたかった作曲を本格的に教えてくれる人は、それまでいませんでした。ネーフェは少年の資質を見抜いて指導し、誌面で世に紹介します。
ベートーヴェンはやがて宮廷オルガン奏者の助手となり、ついで報酬を得る正式の奏者に任じられました。
ボンという街の空気も、彼を育てました。1784年に選帝侯となったマックス・フランツは啓蒙的な君主で、公共の植物園や文庫を開き、1786年にはボン大学が創立されます。
1788年に国立劇場が開設されると、ベートーヴェンはそのオーケストラにヴィオラ奏者として加わり、翌1789年には同年代の親友アントン・ライヒャと連れ立って、ボン大学哲学科の受講生に名を連ねました。文化人の集うブロイニング家に出入りして教養を磨き、長女エレオノーレらにピアノを教え、生涯の友となる医学生ヴェーゲラーと知り合ったのもこの時期です。
演奏家として、家計を支える職業人として、そして啓蒙の空気を吸う一人の青年として、ボンはベートーヴェンの土台をつくった街でした。
母の死、そしてウィーンへの扉
1787年の春、16歳のベートーヴェンは研修のためウィーンへ旅立ちます。旅費の出どころさえはっきりしない、記録の乏しい旅でした。
確かなのは、二週間ほどの滞在中に皇帝ヨーゼフ2世の姿を目にしたこと、そして憧れのモーツァルトをその自宅に訪ねたことです。二人の天才の邂逅として後世の期待をかき立てる場面ですが、当のベートーヴェンは、その中身をほとんど語っていません。
広く知られる「この少年はいずれ世界を騒がせる」というモーツァルトの予言の逸話も、後年の伝記作家オットー・ヤーンが伝聞として紹介したもので、同時代の記録では裏づけられていません。
滞在は、母危篤の報せで断ち切られます。旅を急がせる父の手紙を次々と受け取りながら帰郷した彼は、その後まもなく母の死に立ち会うことになりました。
マリア・マグダレーナは1787年7月17日、肺結核のため40歳で世を去ります。その2ヵ月後、ベートーヴェンは知人に宛ててこう書きました。
彼女は善良そのもので、私にはやさしい母であり、最上の友でもあったのです。
(ベートーヴェンの手紙、1787年9月15日付シャーデン博士宛。出典:青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー、p.39)
11歳の冬、オランダへの船旅の途中、凍えそうな息子の足を自分のスカートにくるんで暖めてくれた――知られている母とのエピソードは、ほとんどこれひとつだと青木は言います。その母の死から4ヵ月後には、1歳半の妹も世を去りました。
父はいっそう酒に逃げ込み、家計と育ち盛りの二人の弟の世話は、16歳の長男の肩にのしかかります。近所に住むヴァイオリンの師フランツ・リースの援助が、この時期の一家を支えました。
それでも研鑽は続きます。読書クラブの委嘱で皇帝ヨーゼフ2世の追悼カンタータを書き、宮廷楽団の一員として旅にも出ました。
そしてロンドンとの往復の途次にボンへ立ち寄った当代随一の大家、ヨーゼフ・ハイドンとの縁が、運命を動かします。1792年11月、ベートーヴェンは選帝侯の給費留学生として、ハイドンに学ぶためウィーンへ発ちました。
22歳になる年のことです。
旅の鞄には、友人たちが別れの言葉を書き込んだ一冊の記念帳が収められていました。その中に、後援者ヴァルトシュタイン伯爵による、後世あまりにも名高い一節があります。
たゆみなき精進を支えに、ハイドンの手からモーツァルトの精神を受けとりたまえ。
(ヴァルトシュタイン伯爵の記念帳への書き込み、1792年10月29日付。出典:同書、p.62)
前年に世を去ったモーツァルトの後継者たれ、という予言めいた餞でした。そしてこの旅立ちが、ボンとの今生の別れになります。
翌12月には父ヨーハンが死去し、フランス革命の戦火はやがてライン地方に及んで、彼が故郷へ帰る機会は二度と訪れませんでした。
ウィーンの光 ── サロンからブルク劇場へ
ウィーンでのベートーヴェンは、まず貴族たちのサロンを征服しました。リヒノフスキー侯爵夫妻は彼を自邸に住まわせ、その夜会は新作発表の舞台となります。
名ヴァイオリニストのシュパンツィヒと出会い、音楽通として知られるスヴィーテン男爵の家に招かれ――若い音楽家は、社交界の中枢に驚くほど速やかに迎え入れられていきました。とりわけ人々を熱狂させたのは、その比類のない即興演奏だったと伝えられます。
ハイドンのレッスンは1794年初めまで続きました。ただ、この師弟の間には微妙な行き違いも残ります。
リヒノフスキー邸で「ピアノ三重奏曲」作品1が初演された夜、ハイドンは全体を言葉を尽くして賞賛しながら、第3曲のハ短調だけは出版を見合わせるよう強く忠告しました。聴衆に最も喜ばれ、作曲者自身の自信作でもあった曲です。
ベートーヴェンはこれを妬みと受け取ったと、後年弟子のリースに語っています。一方で青木は、60歳を超えたハイドンの耳に若者の新しい試みがしっくりこなかったのだろうと、公平な見方を示しています。
ハイドンが二度目のロンドン旅行に発ったのちも、アルブレヒツベルガーに対位法を、サリエリに声楽の書法を学ぶなど、彼は基礎の補強を怠りませんでした。厳格な課題にうんざりしながら週3回の授業に通ったこの研鑽を、青木は、長い作曲生活の中で立ち返るよりどころになったと評しています。
1795年3月、ブルク劇場の演奏会で、ベートーヴェンは自作のピアノ協奏曲と即興演奏を披露し、ウィーンの公衆の前に正式にデビューします。同年5月には作品1がアルタリア社から出版され、事前予約は241部に達しました。
同年11月の美術家協会舞踏会では作曲者に起用され、広告には「名手」の肩書きが大きく掲げられます。出版依頼は途切れず、上流家庭のレッスン料も加わって、経済的な不安は消えました。
1796年にはプラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを巡る演奏旅行に出て、行く先々で聴衆を魅了します。旅先から弟に宛てた手紙には、自分の芸術が友人と尊敬とをもたらしてくれる、これ以上望むものがあろうか、という手応えが躍っていました。
1800年には「交響曲第1番」を初演。20代のベートーヴェンは、ピアニストとして、作曲家として、頂点への階段を駆け上がっていたのです。
忍び寄る沈黙
その階段の途上で、異変は始まっていました。後年の手紙によれば、聴覚の不調が現れたのは1798年頃。
ウィーンに来て6年、ようやく成功への道が開けた27歳のときです。
1801年6月、ベートーヴェンは旧友の医師ヴェーゲラーと、親友の神学者アメンダに宛てて、初めてこの秘密を打ち明けます。手紙によれば、演奏や作曲にはまだほとんど障りがない。
しかし絶え間ない耳鳴りのせいで人の言葉が聞き取れず、かといって大声を出されると耐えがたい。かつては同業の誰よりよい耳の持ち主だったのに、いまや劇場では俳優の台詞を聞き取るために、オーケストラ・ボックスのそばまで行かねばならない――。
3年のあいだに少なくとも4人の医師にかかり、耳に扁桃油を注ぐといった当時の治療を重ねても、症状は一進一退のまま慢性化していきました。医師も本人も原因は持病の胃腸疾患にあると考えていたほどで、難聴の正体は、結局本人にもつかめなかったようです。
何より彼をすり減らせたのは、隠すことでした。聴覚の異常は、音楽家という職業の根幹を脅かす秘密です。
敵対する者に知られたら何と言われるか。親しい友の目にすら、哀れみの色が浮かぶことには耐えられない。
彼は人の集まる場を避け、孤独に閉じこもるようになります。剛毅で大胆な反面、繊細で傷つきやすい――青木が描くこの二面性のうち、後者が静かに悲鳴を上げていた時期でした。
ハイリゲンシュタットの遺書
1802年、ベートーヴェンは静養のため、夏から秋をウィーン郊外の村ハイリゲンシュタットで過ごします。しかし期待した回復は訪れませんでした。
10月、難聴がもはや動かしがたいことを悟った彼は、二人の弟に宛てて、手紙の形の遺言書をしたためます。
そこには、死後の実務に触れた箇所はわずかしかありません。大半を占めるのは、難聴がいかに辛いか、その告白です。
絶望は彼を自殺の誘惑にまで追い込みました。それを思いとどまらせたものについて、遺書はこう述べています。
自分が使命を自覚している仕事を仕とげないで、この世を見捨ててはならない。
(ベートーヴェン「ハイリゲンシュタットの遺書」1802年。出典:同書、p.115)
青木やよひはこの文書を、遺書というよりむしろ信条告白に近いものと位置づけています。このとき決定的に失われたのは生そのものではなく、それまですがってきた快癒への希望だった。
そしてその希望の喪失と引き換えに、おのれの天分への自覚が生まれた。つまり遺書とは、彼の内面で起きた死と回生の記録だ、という読みです。
手紙は投函されることなく本人の手元に残り、死の直後に遺品の中から発見されました。受取人に届けるためというより、自分自身と向き合うために書かれた文書だったのかもしれません。
音楽史の中の1802年
音楽史の側から見ると、この危機の年は一つの蝶番でもあります。岡田暁生『西洋音楽史』は、遺書前後の精神的危機を脱して中期のいわゆる「傑作の森」へ踏み出す1802年あたりに、音楽史の新しい世紀の始まりを置く見方を紹介しています(古典派の終わりをさらに後年に見る立場もある、という留保つきで)。
ベートーヴェンの登場は、同じ「ウィーン古典派」でも、ハイドンやモーツァルトとは時代の空気が違いました。モーツァルトが世を去ったのはフランス革命の2年後、1791年。
ベートーヴェンが作品1を世に問うたのは1795年、最初の交響曲は1800年です。啓蒙の理念と革命の動乱をくぐり抜けた世界で、彼はウィーン古典派の遺産を受け取り、それを19世紀へと運ぶ役回りを引き受けることになります。
ハイリゲンシュタットの絶望の先で書かれていく「英雄」以降の音楽が、その答えでした。
結び ── 絶望の先へ
父の酒に翳る家に生まれた少年は、30歳そこそこでウィーンの頂点に手をかけ、同じ歳月のうちに、音楽家の生命である耳を失いはじめました。ハイリゲンシュタットの遺書は、その絶望の底で、それでも芸術のために生きると書きつけた文書です。
沈黙へ向かう男が、ここから「英雄」「運命」「田園」と続く創造の爆発期へ入っていく――その後半生は、後編で辿ります。あわせて、この遺書と並んでベートーヴェン最大の謎とされる「不滅の恋人」については、別稿で掘り下げています。
参考文献
主要参考文献
- 『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ/平凡社(平凡社ライブラリー)/2018年(原本:平凡社新書、2009年)
- 『西洋音楽史 ──「クラシック」の黄昏』岡田暁生/中央公論新社(中公新書)/2005年
書籍内引用
- ベートーヴェンの手紙(ヨーゼフ・ヴィルヘルム・シャーデン博士宛、1787年9月15日付)
- ヴァルトシュタイン伯爵による記念帳への書き込み(1792年10月29日付)
- ベートーヴェン「ハイリゲンシュタットの遺書」(1802年10月)
補足参照
- Beethoven-Haus Bonn(公式デジタルアーカイブ)
- Wikipedia「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」(1787年の面会に関する記録の有無)
