ベートーヴェン(ベートーベン)は1827年3月26日、56歳で世を去りました。長い闘病の末のことです。
何が彼の命を奪ったのか――この問いは200年にわたって論じられ、近年、遺髪の科学分析によって大きく動きました。とりわけ有名なのが「鉛中毒説」です。
最期に何が起きていたかを押さえたうえで、この説がどこから来て、いまどう評価されているのかを検証します。
最期の数か月 ── 何が起きていたか
発端は、1826年12月でした。甥カールの事件のあと弟ヨーハンの田舎の屋敷で過ごしていたベートーヴェンは、急きょウィーンへ戻る際、暖房のない無蓋の馬車に乗り、寒さの中で重い肺炎を発症します。
駆けつけた内科医ワウルッフの手当てで、いったんは肺炎の危機を乗り越えました。ところが数日後、容態が一変します。
全身に黄疸が現れ、両脚から腹部にかけて水がたまり始めたのです。肝臓が深く冒されていました。
そもそも最初の黄疸の発作は1821年にすでに起きており、肝臓の病は何年も前から進んでいたのです。
闘病の数か月は、苦痛と不安に満ちたものでした。本人は比較的早くから死を覚悟し、遺言を確認する手紙を弁護士に書いています。
気がかりの一つは、お金でした。甥カールに残すための銀行株券には頑として手をつけず、医療保険も社会保障もない時代に、療養費の心配を抱え込みます。
窮状を聞いたロンドンのフィルハーモニー協会は、見舞金として100ポンドを送りました。病臥のベートーヴェンのもとには、かつての仲間も訪れます。
3月8日からは、若き日に世話になった音楽家フンメルが、四度にわたって見舞いに来ました。
治療そのものは難航しました。腹部にたまった水を抜くため、腹腔に管を刺す穿刺が、くり返し行われます。
ベートーヴェンは、回復後の仕事に障るからと痛み止めを断り、苦しい処置によく耐えました。主治医ワウルッフは、会話帳にこう書き残しています。
あなたは騎士のように我慢されました。
(アンドレアス・ワウルッフが会話帳に記した言葉。出典:青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー、p.299前後)
3月24日に終油の秘跡を受け、26日の夕刻、嵐の中で息を引き取ります。翌日に行われた解剖は、肝臓が硬く縮んだ肝硬変であることを確認しました。
これが、長く「死因は肝硬変」とされてきた根拠です。
古い諸説 ── 梅毒から肝硬変まで
死因をめぐる仮説は、時代ごとに移り変わってきました。かつては梅毒説が根強く、近年まで支持する人もいました。
しかし、梅毒患者なら検出されるはずの水銀が遺髪からほとんど出なかったことなどから、いまでは退けられています。
もっとも有力とされてきたのは、解剖所見にもとづく肝硬変です。肝硬変は慢性的な飲酒で起きることが多く、酒を好んだベートーヴェンの肝臓病の原因は飲酒だろう、という見立てが長く通説でした。
ほかにも、彼の生涯にわたる胃腸の不調や難聴をめぐって、さまざまな病名が挙げられてきましたが、決め手はありませんでした。
「鉛中毒説」はどこから来たか
流れを変えたのが、遺髪でした。数奇な経緯でアメリカに渡っていたベートーヴェンの遺髪(ヒラーが切り取ったとされる一房)が、2000年前後に最新の科学分析にかけられ、基準値をはるかに超える大量の鉛が検出されたのです。
これをもとに、2007年には、鉛が彼の難聴をはじめとする不調や、死そのものを引き起こしたとする説が発表されます。
この説は、多くの人を納得させました。慢性的な鉛中毒の症状には、長く続く胃腸障害、痛風、黄疸、そして神経の障害があり、いずれもベートーヴェンの病歴とよく重なります。
短気、もの忘れ、不器用さといった彼の人物像までもが、鉛中毒の徴候として説明できる、というのです。青木やよひも、2009年に著した評伝の中で、この新説を有力なものとして紹介していました。
鉛をどこで取り込んだのかは特定できないものの、当時の汚染された自然環境や食生活に由来するのではないか、と。
2023年の逆転 ── 髪の主は、別人だった
ところが2023年、国際研究チームによるゲノム解析が、この説の土台を崩します。本人のものと確認できた複数の遺髪を分析した結果、鉛中毒説の根拠だったあの遺髪は、ベートーヴェン本人のものではなく、ある女性の髪だったことが判明したのです。
つまり、2000年の鉛分析は、別人の髪を調べていたことになります。
同じ研究は、本人の遺髪から別の事実を突き止めました。肝臓病にかかりやすい強い遺伝的素因と、晩年にB型肝炎ウイルスに感染していた形跡です。
これに飲酒が重なって肝臓を蝕んだ――死因はこうした複数の要因による肝不全だろう、という見立てです。一方、難聴と胃腸疾患については、遺伝的な原因を特定できませんでした。
なお、この研究の出発点に置かれたのは、自分の死後に病を世に説明してほしいという、ハイリゲンシュタットの遺書(全文は別稿に掲載)に記された本人の願いでした。
せめて少しでも、私の死後に世の人々が私と和解してくれるように。
(「ハイリゲンシュタットの遺書」1802年、当サイト訳)
2024年の再逆転 ── 鉛は、確かにあった
では、鉛中毒説は完全に消えたのでしょうか。話はもう一段ねじれます。
2023年の研究は、本人の遺髪そのものについては、鉛を測っていませんでした。そこで翌2024年、別の研究チームが、本人のものと確認された二房の遺髪の鉛濃度を調べます。
結果は驚くべきものでした。基準値のおよそ64倍と95倍――まぎれもなく「鉛中毒」と呼べる水準の鉛が、確かに検出されたのです。
あわせてヒ素や水銀も、基準の十数倍ありました。鉛の供給源としては、鉛で甘みをつけたり鉛の器で扱ったりしたぶどう酒、鉛釉の食器、当時の医療や、汚染された川の魚などが推定されています。
ただし研究者は、慎重に言い添えています。これらの値は、彼の死を単独で引き起こすほど高くはない。
けれども、生涯彼を苦しめた胃腸や腎臓の不調、そしておそらくは難聴にも、影響した可能性がある――と。
そもそも、当時のヨーロッパで鉛にさらされずに暮らすのは、むしろ難しいことでした。ぶどう酒は、酸味を和らげるために鉛の化合物で甘みづけされることが珍しくなく、酒を好んだベートーヴェンは、それを長年口にしていた可能性があります。
食器の釉薬にも、水道管にも、化粧品にも、薬にも鉛は使われていました。彼が特別に不運だったというより、鉛が暮らしのすみずみに潜んでいた時代に、彼もまた静かに蝕まれていた――そう考えるほうが実情に近いのでしょう。
現在の見立て
整理します。ベートーヴェンの死因は、肝硬変による肝不全である可能性が高い、というのが現在の見立てです。
その肝臓病は、遺伝的な素因、B型肝炎ウイルスへの感染、そして飲酒という複数の要因が重なって進んだと考えられています。「鉛中毒説」は、死因そのものとしては退けられましたが、生涯にわたる不調を悪化させた一因としては、むしろ確かな裏づけを得て復権した、という位置づけになります。
なお、難聴の原因については、最新の科学をもってしても、まだ特定されていません(くわしくは難聴の記事をご覧ください)。
一つの劇的な答えではなく、いくつもの要因が長い時間をかけて絡み合った結果――それが、いまわかっている範囲での、もっとも誠実な答えです。
結び
死後に病を解き明かしてほしいというベートーヴェンの願いは、200年を経て、遺髪という思いがけない形で、少しずつかなえられつつあります。近年は、彼のものとされる頭蓋骨の断片がアメリカからウィーンへ戻され、さらなる分析も進められています。
生涯にわたって体の不調と闘いながら、なお膨大な音楽を生み出した人でした。その闘病の出発点となった「ハイリゲンシュタットの遺書」については別稿で全文を訳し、聴覚との闘いそのものについては難聴を扱った記事で、それぞれ辿っています。
参考文献
主要参考文献
- 『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ/平凡社(平凡社ライブラリー)/2018年(原本:平凡社新書、2009年)
書籍内引用
- アンドレアス・ワウルッフが会話帳に記した言葉
- ベートーヴェン「ハイリゲンシュタットの遺書」(1802年。当サイト訳)
補足参照
- Begg, T. J. A. ほか「Genomic analyses of hair from Ludwig van Beethoven」Current Biology(2023年。ヒラー遺髪が別人と判明、肝臓病の遺伝的素因とB型肝炎を確認)
- Rifai, N. ほか「High Lead Levels in 2 Independent and Authenticated Locks of Beethoven’s Hair」Clinical Chemistry(2024年。本人遺髪から高濃度の鉛)
- ラッセル・マーティン『ベートーヴェンの髪』(遺髪のたどった経緯と2000年前後の鉛分析について)
