ジャジャジャジャーン――。クラシック音楽でもっとも有名な四つの音に、日本では「運命」という呼び名がついています。
由来としてよく語られるのが、この逸話です。冒頭の四つの音は何を意味するのかと問われたベートーヴェン(ベートーベン)が、こう答えた。
「このように、運命は扉をたたくのだ」と。
劇的で、音楽にぴったりで、一度聞いたら忘れられない話です。けれど、ベートーヴェンは本当にそう言ったのでしょうか。
この言葉の出どころを、一冊の伝記までさかのぼって検証します。
通説 ── 一冊の伝記から始まった
まず、通説を正確に押さえておきます。問題の言葉の出典は、ただ一つです。
ベートーヴェンの死後13年たった1840年に、元秘書のアントン・シントラーが出版した伝記『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの伝記』。その中でシントラーは、第5交響曲の冒頭について本人に尋ねたところ、次の答えが返ってきた、と書いています。
このように、運命は扉をたたくのだ。
(アントン・シントラー『ベートーヴェンの伝記』1840年が伝える言葉)
この一節が、世界中に広まりました。とりわけ日本では、ここから生まれた「運命」という呼び名が曲名同然に定着し、いまでは「交響曲第5番」より通りがよいほどです。
一方、欧米でも「運命交響曲」にあたる通称は存在するものの、日本ほど積極的には使われていません。レコードやCDの表記を見比べると、その差は歴然としています。
付け加えるなら、この逸話が広まる土壌は、シントラー以前にすでに耕されていました。1810年、作家E.T.A.ホフマンがこの交響曲に寄せた熱烈な批評は、ハ短調の闇から歓喜へ至る音楽を、人知を超えたものへの憧れの劇として神話的に描き出し、ロマン派的な「運命の交響曲」という聴き方を方向づけています。
シントラーの逸話は、30年かけて育ったその土壌に落ちた、よくできた種だったのです。
つまりこの逸話を信じられるかどうかは、ほぼ一点にかかっています。語り手シントラーは、信頼できる証人なのか。
語り手は誰か ── 秘書シントラーの実像
シントラーは、晩年のベートーヴェンの身の回りの世話をした人物です。本人は「ベートーヴェンの友(アミ・ドゥ・ベートーヴェン)」と刷った名刺を持ち歩き、長年献身した唯一の秘書、という印象を世に広めました。
しかし青木やよひによれば、実際に彼が側近くで仕えた期間は、その印象よりはるかに短いものでした。
転機は、ベートーヴェンの死の直後に訪れます。遺言執行人だった親友シュテファン・ブロイニングが、後を追うようにわずか2ヵ月で病没すると、事情をよく知らない未亡人は、夫が保管していたベートーヴェン関係の資料一式をシントラーに託してしまいました。
こうして彼は、故人の記録の事実上の独占者となります。そして1840年、世に先がけて伝記を出版しました。
その中で彼は、ベートーヴェンの身近にいた人々を故意におとしめ、自分だけが真実を知る唯一の親友であったかのように記述した、と青木は指摘しています。
決定打 ── 会話帳の破棄と改竄
それでも、伝記の中身が正しければ問題はありません。決定的なのは、その後に判明した事実です。
シントラーが託された資料の中には、難聴のベートーヴェンが筆談に使った「会話帳」がおよそ300冊とも400冊ともいわれる規模で含まれていました。ところが彼は、その半数以上を無断で破棄し、手元に残したものにも、自分に都合のよい改変を部分的に加えていたのです。
残った会話帳は1846年にプロイセン王立図書館(現在のベルリン国立図書館)へ引き渡されましたが、20世紀後半、この会話帳を調べた研究者たちによって、シントラー自身があとから書き加えた偽の記入が多数まじっていることが突き止められました。自分とベートーヴェンの親密さを演出するための、いわば証拠の捏造です。
これは19世紀から疑われていたことでもありました。アメリカの研究者セイヤーは、当初シントラーの伝記を英訳するつもりでヨーロッパに渡りながら、調べるほどにその偏りと作為に気づき、方針を転換します。
一次資料だけで生涯を再構成する――その執念が、今日も基本文献とされる大部の評伝に結実しました。青木自身も、シントラー由来の有名な逸話(ベートーヴェンがモーツァルトのオペラを非難したという話)を手元の原書で確かめ、該当箇所が見当たらないこと、シントラーがベートーヴェンを「道徳的芸術家」に仕立てることに熱心だったことを記しています。
要するに、「運命は扉をたたく」の唯一の証人は、資料の破棄と捏造が立証された人物なのです。
もう一つの証言 ── チェルニーと鳥の歌
シントラーへの信頼が崩れるにつれて、別の証言が注目されるようになりました。練習曲で知られるカール・チェルニー――少年時代から長くベートーヴェンに師事した、折り紙つきの弟子です。
そのチェルニーは、あの冒頭の動機について、まったく違う説明を残しています。ベートーヴェンが公園を散歩していたとき、キアオジという小鳥の鳴き声を聞いて発想を得たのだ、と。
キアオジはヨーロッパに広くすむ野鳥で、同じ音を小刻みに繰り返したあと、最後にすっと音を変えて伸ばす独特の歌い方をします。実際に鳴き声を聴くと、なるほどと思わせるものがあります。
運命の扉か、公園の小鳥か。落差の大きさに苦笑したくなりますが、証人の信頼性という点では、チェルニーに分があります。
もっとも、こちらも本人の死後に語られた回想であることに変わりはなく、確証と呼べるものではありません。
本人は何を残したか
では、ベートーヴェン自身の手で残されたものを見てみましょう。まず、彼が自分で交響曲に表題をつけたのは「英雄」と「田園」の2曲だけです。
第5番には、表題もプログラムも、本人の説明も残されていません。「月光」「熱情」といった呼び名の多くが後世の命名であるのと同じく、「運命」もまた、本人の与えた名前ではないのです。
しかも、あの「タタタターン」のリズム型は、第5番だけの専売特許ではありません。同じ時期の「熱情」ソナタやピアノ協奏曲第4番など、ほかの作品にも顔を出す、当時の彼が繰り返し試していた音楽的な素材です。
特定の物語を背負った「運命の動機」というより、一つの短い型からどこまで巨大な建築を立ち上げられるか、という作曲上の実験だったと見るほうが、残された楽譜には忠実でしょう。
ただし、興味深い事実があります。ベートーヴェンが「運命」という言葉そのものを愛用していたことは、本人の手紙で確かめられるのです。
難聴を打ち明けた1801年のヴェーゲラー宛の手紙には、こうあります。
できることなら、ぼくは運命を相手に戦い、勝ちたい。
(ベートーヴェンの手紙、1801年ヴェーゲラー宛。出典:青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー、p.114前後)
運命と闘う、という自己像は、シントラーの創作ではなく、確かに本人のものでした。だからこそ、あの逸話はもっともらしく響き、広まったのでしょう。
巧妙な作り話ほど、本物の素材を使っているものです。
検証のまとめ
整理します。「運命はこう扉を叩く」という言葉は、出典がシントラーの伝記ただ一つであること、そのシントラーに資料の破棄・捏造が立証されていること、本人の文書に裏づけがないことから、ベートーヴェン自身の言葉と断定することはできません。
今日の研究や演奏会プログラムでは、この逸話は「シントラーが伝えたとされる話」として、注釈つきで扱われるのが標準になりつつあります。一方で、完全な作り話だと証明されたわけでもありません。
検証の結論として誠実なのは、「本人が言ったという確かな根拠はない」、ここまでです。
そして「運命」という呼び名は、その不確かな逸話の上に、主に日本で育った愛称だということになります。
結び ── 名前を外して聴いてみる
俗説には俗説の働きがあります。「運命」という名前は、150年以上にわたって無数の人をこの曲へ導いてきました。
それを取り上げる必要はありません。ただ、由来を知ったうえで、いちど名前を外して聴いてみる価値はあります。
暗闇から光へと駆け上がる30分あまりの構築は、扉をたたく運命の物語がなくても、いえ、ないからこそ、いっそう雄弁に響くかもしれません。
この曲が生まれた「傑作の森」の歳月は後編で辿りました。そして、この記事で浮かび上がった人物――ベートーヴェン像を一世紀にわたって歪めた秘書シントラーについては、別稿で正面から取り上げています。
参考文献
主要参考文献
- 『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ/平凡社(平凡社ライブラリー)/2018年(原本:平凡社新書、2009年)
書籍内引用
- ベートーヴェンの手紙(フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー宛、1801年)
補足参照
- アントン・シントラー『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの伝記』(1840年。問題の逸話の出典)
- カール・チェルニーの回想(冒頭動機とキアオジの鳴き声について)
- 「交響曲第5番(ベートーヴェン)」日本語版Wikipedia(呼称の使用状況・シントラーの信憑性に関する整理)
