ベートーヴェン「ハイリゲンシュタットの遺書」|全文訳と背景

ベートーヴェン(ベートーベン)が残した文書の中で、もっとも有名で、もっとも胸を打つもの。それが「ハイリゲンシュタットの遺書」です。

31歳の作曲家が、二人の弟に宛てて書いた手紙の形をとっています。けれど、これが投函されることはありませんでした。

この記事では、この文書が書かれた事情を解説したうえで、全文を当サイト独自の訳でお届けします。

目次

いつ、どこで書かれたのか

1802年の5月から10月にかけて、ベートーヴェンはウィーン郊外の村ハイリゲンシュタットに滞在していました。住まいは、ヌスドルフへ向かう道沿いの、一軒家の農家です。

目的は療養でした。彼は以前から胃腸の不調と激しい腹痛に悩まされており、この地の鉱泉が効くと考えられていたのです。

主治医のヨハン・アダム・シュミットは、できるだけ聴覚をいたわるようにと助言し、悪化していく難聴の快復にも望みをつないでいました。

しかし、希望は満たされませんでした。前年の1801年、ベートーヴェンはすでに、旧友の医師ヴェーゲラーと、親友の神学者アメンダに宛てて、聴覚の異常を打ち明けています(このあたりの経緯は前編で辿りました)。

静養の地で快復を待ちながら、彼の心は、むしろ絶望のほうへ傾いていきました。そして10月6日、彼は二人の弟、カスパール・カールとニコラウス・ヨーハンに宛てて、遺言の形をとった長い手紙を書きます。

さらに10月10日、いったん封をして折りたたんだ紙の宛名の面に、追って一節を書き加えました。

ハイリゲンシュタットの遺書 ── 全文(当サイト訳)

わが兄弟カールと〔  〕ベートーヴェンのために

おお、私を敵意ある、強情な、あるいは人間嫌いの男だと見なし、また言いふらしている人々よ。あなたがたは、どれほど私に対して不当であることか。あなたがたは、そう見える隠れた原因を知らないのだ。私の心と精神は、幼い頃から、人を思いやるやさしい感情に向かっていた。大きな善い行いをなすことにも、私はつねに心を傾けてきた。だが、考えてみてほしい。もう六年このかた、私は救いがたい状態に陥り、無分別な医者たちのために悪化させられ、年ごとに快復の希望を欺かれ、ついには長く続く病——その快復にはおそらく何年もかかるか、あるいはまったく不可能かもしれない病——を見据えざるをえなくなったのだ。燃えるような活発な気質に生まれつき、社交の楽しみにも心を開いていた私が、早くから身を引き、孤独のうちに生きねばならなかった。ときにそのすべてを忘れて人の中へ出ようとすると、自分の聴覚の衰えという二重に悲しい経験によって、なんと手ひどく突き返されたことか。それでも私は、人に向かって「もっと大きな声で。叫んでくれ。私は耳が聞こえないのだ」と言うことが、どうしてもできなかった。ああ、ほかの誰よりも完全であるべき感覚、かつて私が誰にもまさる完全さで持っていた感覚——同じ仕事をする者の中でも、これほど完全に持っていた者はほとんどいないにちがいない、その感覚の衰えを、どうして私が打ち明けられよう。——できないのだ。だから、本当はあなたがたの中に交わりたいのにしりごみするのを見ても、どうか許してほしい。人に誤解されねばならないことが、私の不幸を二重に辛いものにする。私には、人との交わりの中での憩いも、洗練された会話も、心を通わせ合うことも許されない。ほとんどただ一人で、どうしても必要なときだけ、人の中へ出られるにすぎない。追放された者のように生きねばならないのだ。人の集まりに近づくと、自分の状態を気づかれはしないかという、焼けつくような不安に襲われる。

この半年を田舎で過ごしたのも、そのためだった。賢明な主治医は、できるだけ聴覚をいたわるようにと勧めてくれ、それは今の私の心の傾きとも、ほとんど一致していた。それでも、ときには人恋しさに駆られて、つい出かけてしまうこともあった。だが、誰かが私のそばに立って遠くの笛の音を聞いているのに、私には何も聞こえない、誰かが羊飼いの歌を聞いているのに、私にはやはり何も聞こえない——そんな出来事が、私を絶望のふちへ追いやった。あと少しで、私は自分の命を絶つところだった。——ただ芸術が、それだけが私を引きとめた。ああ、私が果たすべきだと感じているすべてを生み出すまでは、この世を去ることなどできない、と思えたのだ。こうして私は、この惨めな生をながらえてきた。本当に惨めな生を。ほんの少しの急な変化が、最良の状態から最悪の状態へと私を突き落とす、これほど敏感な体で。——忍耐——そう、いまや私はそれを導き手に選ばねばならない。私はそうした。——願わくは、耐えぬくという私の決意が、揺るがぬものでありますように。情け容赦のない運命の女神が、ついに糸を断ち切るのを良しとするときまで。良くなるかもしれない、ならないかもしれない。私は覚悟ができている。——二十八の年にして、すでに哲学者にならざるをえないとは。それは容易なことではない。芸術家にとっては、誰にもまして辛いことだ。——神よ、あなたは私の心の奥を見おろしておられる。あなたはそれを知っておられる。そこに人への愛と、善をなそうとする心が宿っていることを。おお、人々よ。いつかこれを読むことがあれば、思ってほしい。あなたがたは私に対して不当であったのだと。そして不幸な者は、自分と同じ一人の人間——自然のあらゆる妨げにもかかわらず、なお、価値ある芸術家、価値ある人間の列に加わろうとして、できるかぎりのことを成し遂げた一人を見いだして、慰めとするがよい。

わが兄弟カールと〔  〕よ。私が死んだら、そしてシュミット教授がまだ存命なら、私の名において彼に頼んでほしい。私の病について記録してくれるよう。そして、この書いた紙を、その病歴に添えてほしい。せめて少しでも、私の死後に世の人々が私と和解してくれるように。——同時に、ここであなたがた二人を、私のわずかな財産(もしそう呼べるものなら)の相続人と定める。それを公平に分け、互いに支え合い、助け合ってほしい。あなたがたが私に逆らってしたことは、もうとうに許していると、あなたがたも知っているとおりだ。弟カールよ、とりわけこのところ私に示してくれた献身に、あらためて礼を言う。私の願いは、あなたがたが私よりも煩いの少ない、よりよい生を送ることだ。子どもたちには徳をすすめてほしい。人を幸せにできるのは、金ではなく、徳だけだ。私は経験から言っている。惨めさの中で私を支えてくれたのも、徳だった。芸術とともに、自殺によって生を終えずにすんだのは、徳のおかげだと感謝している。——さらばだ、そして互いに愛し合ってほしい。——すべての友に感謝する。とりわけリヒノフスキー侯と、シュミット教授に。——リヒノフスキー侯からいただいた楽器は、あなたがたのうちの誰かが保存してくれるよう願う。だが、そのことで争いが起きてはならない。もっと役に立つことに使えるなら、ためらわず売ってよい。墓の下からでも、なおあなたがたの役に立てるなら、私はどんなに嬉しいことか。——では、これで。——私は喜んで死に向かって急ぐ。——もし死が、私の芸術の力をすべて開花させる機会を得る前に来るのなら、この厳しい運命にもかかわらず、それはやはり早すぎる。私はもっと後に来てほしいと願うだろう。——だが、それでも私は満足だ。死は、果てしない苦しみの状態から私を解き放ってくれるのではないか。——来たいときに来るがよい。私は勇気をもってお前を迎えよう。——さらばだ。そして、死んだあとも私をすっかり忘れないでほしい。私は、あなたがたにそうされるだけのことをした。生きているあいだ、あなたがたを幸せにしようと、何度もあなたがたのことを思っていたのだから。——どうか、幸せに。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン ハイリゲンシュタットにて、1802年10月6日

〔宛名の面に〕わが兄弟カールと〔  〕のために、私の死後に読み、執り行うこと。——

〔10月10日の追記〕ハイリゲンシュタットにて、1802年10月10日。——こうして私はお前に別れを告げる。——それも、悲しみのうちに。——そう、いとしい希望よ。少なくともある程度までは癒されるという、ここまで携えてきたお前に。——その希望も、いまや私をすっかり見捨てねばならない。秋の木の葉が落ち、枯れていくように、それも私にとって枯れ果ててしまった。——ここへ来たときとほとんど変わらぬまま、私は去っていく。——美しい夏の日々に、しばしば私を奮い立たせてくれたあの高い気概さえ——消えてしまった。——おお、摂理よ。どうか一度、清らかな喜びの日を、私に現してください。——真の喜びの、心の奥にひびく谺は、もうこれほど長く、私には縁遠いものになっている。——おお、いつ、おお、いつ、おお神よ——自然と人々の神殿の中で、私はそれをふたたび感じられるのか。——けっして?——いや——おお、それはあまりに辛すぎる。

読みどころ

短い文書ですが、行間には読み取るべきものが多くあります。

弟へ呼びかけながら、世界へ語っている。 体裁は二人の弟に宛てた遺言ですが、財産分けに触れた箇所はわずかで、大半は「おお、人々よ」と、まだ見ぬ後世の読者に向けられています。なぜ自分が偏屈で人間嫌いに見えるのか、その隠れた原因を弁明する——本当の宛先は、彼を誤解する世の中そのものだったのでしょう。

「ただ芸術が、それだけが私を引きとめた」。 文書の山場は、死の誘惑を語ったあとのこの一行です。果たすべき仕事を成し遂げるまでは死ねない――この一点が、彼を生の側につなぎとめました。遺書は、死の告白でありながら、創造へ向かう決意の表明でもあるのです。続く「忍耐を導き手に選ばねばならない」という言葉も、絶望の底で見いだされた、痛切な覚悟を伝えています。

書かれなかった弟の名前。 宛名には「わが兄弟カールと〔  〕」とあり、もう一人の弟ニコラウス・ヨーハンの名が、空白のまま残されています。文書中三か所で、彼はヨーハンの名を書きませんでした。ウィーン移住後に二人とも呼び名を変えていたため迷ったとも、のちに「偽の弟」と呼ぶほどこじれた弟との関係の影とも言われ、はっきりしません。

「二十八の年にして」という誤り。 本文には「二十八の年にして、すでに哲学者に」とありますが、このとき彼は実際には32歳でした。前編で触れたとおり、父が幼い彼を「神童」に仕立てる際に年齢を偽ったため、ベートーヴェンは生涯、自分を二歳ほど若く思い込んでいたのです。最も内面的な文書にまで、その思い込みが顔を出しているのは、考えさせられる事実です。

10月10日の追記。 いったん封をした紙に書き足された最後の一節は、本文とは少し調子が違います。快復という「いとしい希望」に別れを告げ、秋に枯れ落ちる木の葉になぞらえる。そして「自然と人々の神殿の中で、ふたたび喜びを感じられるのか」と問い、「けっして?――いや――おお、それはあまりに辛すぎる」と、宙づりのまま筆が置かれます。完全な絶望にも、安易な希望にも落ちきらない、その揺れのままに終わるところに、かえって真実味があります。

投函されなかった手紙

これほどの思いを綴りながら、ベートーヴェンはこの手紙を出しませんでした。封をし、宛名を書き、それでも送らずに、自分の手元に保管し続けたのです。

文書が日の目を見たのは、彼の死後でした。1827年3月、遺品を整理していたシントラーとシュテファン・ブロイニングがこれを発見し、同じ年の10月に公表されます。

手紙はその後、いくつもの人の手を経て、現在はスウェーデンの歌手イェニー・リンドの寄贈により、ハンブルクの州立・大学図書館に収められています。なお、本文で弟たちに託された「リヒノフスキー侯の楽器」――名器を集めた弦楽四重奏のための一式は、いまボンのベートーヴェン・ハウスにあります。

遺書を書いたあと、ベートーヴェンは死にませんでした。それどころか、ここから「英雄」「運命」「田園」と続く、創造のもっとも豊かな時期へと入っていきます。

だからこそ、この文書は「遺書」という名でありながら、ひとつの再出発の記録として読まれてきました。青木やよひは、これを遺書というよりむしろ信条告白に近いものと位置づけています。

決定的に失われたのは生そのものではなく、すがってきた快復への希望であり、その喪失と引き換えに、おのれの天分への自覚が生まれた――そう読むのです。

結び

死の淵で「ただ芸術が私を引きとめた」と書いた人は、その後25年を生き、人類に膨大な遺産を残しました。ハイリゲンシュタットの遺書は、その後半生のすべてが、いったん死を見据えた地点から始まっていることを教えてくれます。

この文書の前後をふくむ生涯については前編・後編で、そして同じく机の奥に残されたもう一通の手紙「不滅の恋人」については別稿で、それぞれ辿っています。


参考文献

底本(全文訳の典拠)

  • ベートーヴェン自筆「ハイリゲンシュタットの遺書」(1802年)。ドイツ語原文(『ベートーヴェン全書簡集』ジークハルト・ブランデンブルク編/ヘンレ社、所収。独語版Wikisource「Heiligenstädter Testament」)より当サイト訳

主要参考文献

  • 『ベートーヴェンの生涯』青木やよひ/平凡社(平凡社ライブラリー)/2018年(原本:平凡社新書、2009年)

補足参照

  • Beethoven-Haus Bonn(公式デジタルアーカイブ、遺書および関連楽器について)
  • ベートーヴェンの手紙(フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー宛、1801年6月29日・11月16日付/カール・アメンダ宛、1801年7月1日付)
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